Refresher's Blog

人間性心理・教育を研究する最上雄基のブログ。モラハラ、毒親、アダルトチルドレン、社会や歴史を含め広い視野で原因を知っていく。ホームページ Refresherぷらす https://www.refresherblue.com/

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コミュニケーション

自分がいい人だと勘違いしている人

 自分が「いい人」だと勘違いしている人が結構います

 自分が「優しい」と思っています

 どんな人か?

 いろんなことにすぐ不満を持つのですが、怒りを感じながらも我慢する人です

 「相手が傷つくだろうから」

 そんな理由をつけます

 「どんな反応をされるか怖いから」

 自分が臆病なせいにします


 すると、自分は優しい、内気な人間で、言いたいことも言えない、という勘違いをします


 本当に優しい人は、不満など感じていません

 いちいち敵意を持つから「言いたいことも言えない」のです

 「言ったら争いになるようなことばかり思う人」なのです


 心の中にいる自分が、人間の敵なのです

 不満だらけなのに「言わずにいてやっている」から自分は優しい

 そんな人は、誰も優しいと思いません


 あなたに我慢して、あなたへの不満を言わずに優しいふりをしてくれる人

 あなたはその人の心を知って
「なんて優しい人なんだ!私を傷つけないために本当はすごく不満があるのに黙って仲良くしてくれていたなんて!」
 と感動しますか?


 しかし、自分は優しい、自分はいい人、と誤解している人は多いのです

 自分を誤解しているから、他人が酷い人たちのように思えます



 自分を知り、相手を知ることができます。


 自分を知らずに相手を知ることはできないのです


























「傷ついて忘れられない言葉」~言霊の呪いの話より~

有料会員向け記事より、抜粋

 言霊の呪いは甘く見ないことです。

 一番簡単にもらってくるものでありながら、なかなか勝手に解けることもないものですから。

 例えば、皆さんは家の中で酷いことを言われて傷ついていた時に、外に出て「優しい言葉をかけてくれる人」に出会うと「この人はいい人だ!」と思ってしまうでしょう。

 それは呪いの一部です。

 「いいことばかり言う人」に感激してしまうのです。

 言霊の呪いにかかっているので、反対に存在している言葉に過剰に癒されるのです。

 しかし、そのように言葉だけに感動してお付き合いでもしてみたら、思ったような素敵な人ではなかったなんてこともあるのです。

 僕は普段から人を見つつ、どこから何が流れてきてどうなっているのかなと見ています。

 悩んで地獄をぐるぐる回っている人は、何かに足を取られています。

 ちなみに、心理学で言うところの無意識と意識の乖離は、平安時代で言うところの呪われた人です。

 意識の上ではまともなのですが、無意識の方が抑圧されて時々ヒステリーを起こしたりします。

 それをその昔は「悪霊にとりつかれた」などと呼んだのですが、それには色々理由があると考えねばなりません。

 なぜならば、呪われているのは貴族のお姫様だったりするからです。

 現代で言うならばこんなことです。

 大変お育ちの良いお嬢様が、時々キレて奇声を発するのです。

 「ふざけんじゃねえぞ!あのくそババア!くたばれ!」

 もし、普段は小鳥の鳴き声のようにかわいらしく話している大人しいしおらしいお嬢様が、そんな様子を見せたらどうなるでしょうか。

 お嬢様の御乱心です。

 くそババアとは、「お母さま」のことです。

 「いつもあんなに優しい私の可愛い○○ちゃんが!一体なぜ?!」

 こうして、貴族が嘆いたところで、その昔ならば神通力のある坊主とか陰陽師みたいな人の出番なのです。

 祈祷などは今で言うところの催眠術などを含む、セラピーの方法と言えます。

 なので僕もかつての方法を今に持ち越し、おりんの音やお香の匂いなど、五感を必要とするものをあれこれ使っているのです。

 ゴマ豆乳鍋を食べながら思ったのですが、皆さんは脳内に過去に聞いた言葉がいつまでも思い出されて嫌な気分になっていないでしょうか。

 ちなみに、僕はそのようなことが全くありません。今は本当に皆無です。

 体験はありますからわかりますが、そのように過去の言葉が今に響いてくるならばそれは解決した方がいいです。

 今の行動を過去に引きずられます。それがかつてで言うところの「言霊の呪い」です。

 どういう時にかかるのか、どうした人がかかるのかなど、理由はあります。説明できなくはないですが、それは面倒なのでやめます。

 あと、ゴマ豆乳鍋って美味しいですね。豆乳って嫌いだったのですが、料理に入れてスープに使うと美味しいんですね。

 知りませんでした。これからも食べようと思いました。

 それから、呪いにかかっている時は、それを人に言わないはずです。

 人に今まで話したことはないが、今も覚えている「傷ついた過去」の話があるならば、それは滅していくべき呪いでしょうね。

 本当に冗談抜きで、そのまんま放置していても平気だと思ったら大間違いなので、軽く考えないことです。

 無意識を操られるということは、人生殆ど持って行かれるのと同じです。



 頭の中であれこれ考えながら、まあやり方はこれなら間違いないと思う方法はあるのですが、現代風っぽくする方が面倒くさいなあとか、色々考えていました。

 言霊を打ち破るだけならばともかく、その後の方向性が変な方に行かないように気を付けなくてはなりません。怒りと憎しみが残っているとどうしても引きずられますからね。


 今回の記事は抜粋ですが、殆どの人は大昔の呪いと、今の心療内科で見ているような症状は別物だと思っているのではないでしょうか。
 それは名前が違うからです。

 別の人が別の角度から見て名付けたものでしかありませんが、そのように「形」が違うと目の前にあるものが同じであるのに、違うものだと思ってしまうのです。

 それが、言葉に呪われている人たちです。

 現実を直視するとは、「あるがままの姿」を見るということです。

 そこに一切の解釈は要らず、ただそうであるというだけの世界、何もない、シンプルで自然なままの世界があればいいのです。























あなたが他人に求め続けているもの

 あなたが他人に求め続けるものは、自分が他人にやらねばならないのに全く気付いてもいないことだ。

 と、いう前提で、自分が求めるものをどこで他人にしてあげなくてはならな「かった」のか、考えてみてほしい。

 あまり多く書くとただ丸暗記してわかった気になる人が多いので、あなたの場合、で考えてほしい。


 いつまでも「好きでもない人にしがみつく」のは、自分自身が既に何かしてあげなくてはならない人を忘れているからだ。


 もらっただけで、「あの人はいい人だ」で済ませている人がいないか、考えてみてほしい。

 あの人は優しいから大丈夫。

 あの人は仕返しなんてしてこない性格だから大丈夫。

 そんな風に、自分がもらう時は損したとは思わないから、そのままにしていないだろうか?

 文句も言わず、何かしてくれた人がいなかっただろうか?

 他の人なら同じ立場で同じように出会っても、同じようにはしてくれなかっただろう。

 と振り返ってもわかる人に対して、困っていた「その時」を過ぎてもそのままにしていないだろうか?

 もし、あなたが困っている時に親切な人が助けてくれたり、辛い気持ちの時に慰めてくれたり、そのような人がいてその時は「良い思い」をできたとしても、その後、その時の状況をあなたが乗り越えて違う今になったならば、あなたも「お互い様」の精神で相手を助けていかねばならない。

 それを繰り返し相互に行っているから、夫婦も家族も友人も、みな共に歩んでいけるのだ。


 親切な人に助けてもらったら、「じゃあ次」と一人で先に進んで、人を見捨てて新しいものを手に入れるために欲を出していないだろうか?

 自分自身の行いについて振り返るのだ。

 欲深い人は、自分から本当に奪っていったような人を追いかけ続ける。

 向こうから自分に要求してきた人に何かしてあげて、お返しがないと恨むのだ。

 しかし、自分は何かしてくれた人に対して、お返ししてきただろうか?

 自分のときだけは、「もう過ぎたことだからしょうがない、でもありがたかった。いい人に出会ってよかった。」なんて都合のいい空想で済ませていないだろうか?

 心の中で感謝しているから、自分は感謝している人になれたなどと図々しいことは思うな。

 これから何かお返ししていく準備があって、これからの行動で相手の役に立つことができて、はじめて過去は清算されるのだ。

 もらった時は、そのまんま。

 あげた時だけ恨んで追いかけ続ける。


 これが、自分だけ得して生きようとする鬼の道を行くものだ。

 あなたは不幸になっているだろう。

 満足するような今に至れていないだろう。

 当たり前だ。

 あなたは人にお返しせずに生きてきたがために、本来ならばいてはいけない状況になっている。

 あなたにしてくれた人たちを、自分にしてもらえたようにお互い様でしてあげ続けていたら、とても手に入らなかったものを手に入れている。

 いちいちしてくれた人に返していたら、どんどん進めない。

 してくれる人に「親切な人」を選び続け、もらったら進んで離れるを繰り返すから、自分では進めないような道にも進んでいけるのだ。

 そのいてはならない今にいる人は、誰か救ってくれと求めていることだろう。

 そんな状況に至れる自分でもないのに、自分の力で今に至っていると勘違いしているのだから。


 支配することでしか他人とつながりを持てない人は、常に「してあげる人」「してもらう人」に分かれようとする。

 それは、何かの状況においてのそれぞれの立場であって、人そのものが「もらう人」「あげる人」に役柄のように分かれているわけではない。

 それでは世の中が不当な社会になってしまう。


 とにかく、間違いないことをひとつ言うならば、あなたが正当なことのみして生きていけば不幸になり人間を恨むなどありえないことなのだ。

 不当なことをしてこなかったか。

 都合のいい嘘を本当のことのように言い張って生きていないか。

 あらゆる卑劣な行いに、常に天罰は即、降ってくる。


 あなたの過去のことや心の行いなどあなた以外に知ることはできないが、自分だけは知ることができるのだから、よく振り返り自覚した方がいい。

 あなたが自分の内面を見ることを怠れば、あなたはどんどん精神的にダメになっていくだけなのだから。

















津軽弁はフランス語に似ているという羨ましい話は本当なのか、工藤さん

 人の違いが面白い、違いを知るほど好きになる。

 人の違いを知りたい僕にはとっても興味深い話がありました。

 「津軽弁Youtuber」なる方がいました。

 津軽弁がフランス語に聞こえます。こうして聞いていると、なんて軽やかな方言なのでしょうか。羨ましいですね。


 

 更に、コメント欄で知りましたが、青森に「工藤さん」は多いそうです。知りませんでした。

 この方の他の動画でも「工藤さん」は登場してきます。

 津軽弁を聞いて「なんだかわからない」と思った人もいると思いますが、これだけ違う言語をベースに共通語で会話をするのが我々日本人なのだと理解し、その違いの大きさについても知って行きましょう。

 自分と同じではありません。

 自分の使う言語をベースに、よその言語について印象を持つのです。

 自分の話し方は地元ではなんともなくとも、他の地域の人には攻撃的、冷たい、という印象を持たれるかもしれません。

 人間性とは関係なく、表現の違いによってなんとなく人のイメージを作ってしまうものです。無意識にやっているので自覚すらありません。

 それが自分なのだ、それが人間なのだと自覚し、人とのやり取りにおいてもやたら簡単に決めつけることなく、よく理解していく姿勢を持っていきましょう。

 相手が個人的に気に入らないと、意識的に人に冷たくする人もいます。面白くない気分だから相手を傷つける、バカにする。そしていい気分になる。
 それは単純に性格が悪いだけです。

 それとは関係なく、このようにそれぞれの違いがありますから、僕たちは浅はかで愚かな人にならないよう努めていきましょう。











 
 

楽には生きられない、人間社会

 自分をわかってくれる人が欲しい

 かどうかはともかくとして、この人間社会は天国ではないので楽に生きられることはない。


 僕も、もうどれだけ普通に会話できる人に出会っていないだろうか、と考える。


 自分が独りよがりな世界に生きている人は、全くわからないだろう。

 「いつか私をわかってくれる人がやってくるはず」とかなんとか願いながら、期待した誰かが自分をわかってくれなかった、などと嘆くのだろう。

 この発想は、そもそもが間違った考えの元に生まれてくるものだ。
 自分のことをわかってくれたら、「その人は望んだことを叶えてくれる」という根拠ない『常識』があるとすればの話なのだ。

 私の気持ちがわかったならば、やることはわかるよね?

 そのような強要をする気なのだ。

 気持ちはわかるけど、事情は理解できたけど、「でもどうにもしてあげられない」が当然だ。


 それは、ただの我儘だ。


 しかしそんなことではないのだ。


 「会話できる他人」

 これさえ、なかなか見つからない。


 今会話をしながら、会話の内容を想像し、お互いに今同じものを思い浮かべながら話す。

 それができる人がいない。


 会話しているようでいて、脳内にはバラバラなものが思い描かれている。

 漫画の吹き出しのようなものがあるとイメージしてほしい。

 各々が全く違うものを脳内に思い浮かべながら、会話の上では同じことについて話しているというおかしな光景なのだ。

 本当に会話できている時は、同じものをイメージして、同じものについて話している。

 この会話としては当然のことが、滅多に起きない。


 話を最後まで聞かずに、かぶせてきて自分の話をする人。しかし自分の話は聞かせたがる。

 逆に話を最後まで聞いてくれる。かと思いきや、聞き流しているだけで返事はない。

 無言でいるから「どうしたの?」「聞いてた?」と問えば、

 「今どう言えばいいのか考えてるところ。」

 なんておかしな返事が返ってくる。学校の発表ではないのだ。小学生ではないのだ。

 大人の人間同士がやることではない。

 そんなことを言う人から出てくる結論は、そこまで勿体つけて考えた割には大したこともない話なのだ。


 また、友達がいない、仲良くなりたい、と口では言うのに、好きになろう、仲良くなろうとすると邪魔してくる。

 好きになってほしくもないし、仲良くなりたくもないのだ。

 人を好きになるためには、好きになる努力が必要だ。

 最初は相手のことは知らないから、好きにはなれない。

 一見したところのイメージで好きか嫌いかを考えるくらいしかできない。つまり偏見だ。

 実際に接するのではなく、アイドルのように見るならば、でしか考えられない。

 だから、好きになるためには能動的に接しなくてはならない。

 自ら連絡をして、仲良くなるために話題を探す、一緒に楽しむ何かを考える。

 全く仲良くもないし、好きでもないのだから、頑張らなくては好きにもなれない。

 好意を持つために好意的な見方をして、否定的に思えるところがあっても軽々しく判断しない。まだ良く知らないのだから。

 自分がよく知りもしない相手から、軽々しく否定的な判断をされたらいい気がするわけない。
 自分がやられて嫌なことは他人にもしない。なにせ仲良くなりたいのだから。

 努力なくして、人と親しくなっていくことはない。

 常に他人は知らない人なのだから、「これから仲良くなっていく、好きになっていくための努力」が必要だ。

 だから好意的に接する。相手を受け入れるという態度で接しないと、相手を好きになれない。

 自分の態度で相手がどう見えるかが変わってくる。だから「どう見たいか」に合わせて自分の態度は選んでいかねばならない。

 優越したい人が相手を見下した態度で接するのと同じだ。何があっても相手を自分より下に思うし、相手の価値を感じなくなる。

 仲良くなりたいならば、それはまずい。

 自分の態度で結果どうなるのかわかっているのだから、最初から好意的に接するのだ。

 「好きになるために接している」からだ。

 ただ、好きになるために接しても相手も同じとは限らない。

 「仲良くなりたい者同士」ならば話は早いのだが、なかなかそうはいかない。

 仲良くなりたい者同士の時は本当に話が早い。

 どちらもが「仲良くなろう」としているからだ。目的が一致している時は、必ず達成される。

 動機が同じならば、必ず仲良くなるのだ。

 しかしそれすら滅多に起きないことだ。

 特別な関係ではなく「友達」にすらなりたくない人が多い。

 友達になるのがまず第一歩だが、それは特別な関係ではなく「既に存在している他の友人たちと同じ扱い」になることだ。その枠の中に一人増やすだけのことだ。

 だが、友達の枠にも入れてくれる人はなかなかいない。

 ものすごく浅い付き合いならば、問題ない人が多い。

 しかし、個人的な関係には、大人になったらそうそうなりたい人はいない。


 個人的願望を叶える人が欲しい、という人が殆どだ。


 個人的に普通に友達になりたい、なんて人がいないのだ。

 それは態度でわかる。

 受け身なのだ。

 先に述べた通り、自分の態度で「これから相手をどう思うかが変わる」のだから、受け身であるということは「好きにならない」ということだ。

 相手を大事に思えてくるかどうかは、自分がどれだけ心を尽くし、行動したかによる。

 自分から行動もしないのに相手を好きになったり大事に思えたりはしない。

 もし、相手にだけ行動させていたら、当然相手は自分に対して「好意を持つことができない」のだから、好きになってほしい人はそんなことはやらない。

 優越感に浸りたいだけの人は、「仲良くなりたい」と言いながら何もしない。

 相手が仲良くしようとし始めると、向こうから連絡をしてくる。向こうから常にアクションをしてくる。

 それを受け身で見ていると、自分が好かれているように「一人の世界で思い込める」のだ。

 優越感に浸れる。自分が相手にモテているかのように、向こうが一方的に自分にいい寄っているかのように思える。

 相手に声をかけられてばかりだと、自分が何かの誘いを受ければ「受けてあげている」という気分になれる。ちょっと何かしてあげれば「してやった」という気分になれる。

 これは向こうから大胆な行動でスタートを切ってくる、妄想恋愛ストーカーの人たちに共通することでもあった。

 受け身なくせに、「どんなにあなたが好きか」など、いちいち説明する。

 相手がその気になってくれるのを期待する。自分が如何に素晴らしいかを見せつける。どんなことを思っているのかを聞かせる。

 そして、「あとはあんたが行動しろよ」という態度なのだ。

 「わかったら、何をすればいいのか自分で考えろ」なのだ。

 実際言われたこともある。

 付き合いたくないのに付き合わされて、思ってもいないことを思っていることにされていて、「実際とは全く違う今」をやらされている。
 そこで「一体何すればいいんだよ」と嫌になって言った。

 すると「そんなの自分で考えなさいよね!」と相手は呆れたように怒る。呆れることだろうか?

 そして口を利かなくなる。それが貴族のお嬢様だった。彼らは金の力でなんでも黙らせて生きているから、当たり前だと思っている。事実などどうでもよく、彼らにとっては社会も他人もすべて道具に過ぎなかった。

 しかし、庶民でもそんなことをしているのがいる。

 彼らのように特別なものを持たないのに、自分のまともな人間関係を捨てて優越感を選ぶ。


 「いい気分になれた」

 それだけのために、と僕は思う。

 僕は人と仲良くなるために努力はするが、努力する人は元々「人を好きになる姿勢」で生きている。

 出会った時から、違うのだ。

 仲良くなろうとしてくれている、とわかる。

 それがうれしい。

 こっちも同じだから。

 同じだから、お互いに言わなくてもわかる。

 「仲良くなろうと頑張ってくれている」と。


 それで、どんどん仲良くなっていくのだ。


 知らない人である。好きでもなんでもない人である。

 その「他人」を今から努力で好きになっていくのだから、容易ではない。

 しかも「お互いにやらなくてはならない」のだ。自分だけでは無理なのだ。


 お互いに仲良くなろうとしている、と気づいた時、運命だ。と思う。思える。

 だから今でも記憶に残っていて忘れないのだ。

 すごくすごく嬉しくなる。


 しかし、もう会話になる相手すらいない。

 言葉は交わしている。

 だが、心は分かち合えない。


 仲良くなる努力を誰もしない。

 これが「幼児期の優越感欲しさ」であるならば、確かに大変なことだ。

 まだ幼児期の満足感が得られない。だから、社会に出た大人たちがみな「人の話を想像すらせず生きている」というならば、愛し合った夫婦の子など奇跡の産物だ。


 昔から、こんなものなのだと思う。

 僕が覚醒した時、小学生だった。早かった。

 だが、会話はしているつもりでも、実際に「同じものをイメージして会話をした」という体験は高校一年になるまでなかった。

 相棒に出会って、初めて体験した。

 あいつだけが、「人の話を真剣に想像しながら聞いていた」のだ。

 わからない時、いちいち確認してくる。

 人の話を聞きながらきちんと想像している。だから返事が早い。質問も多い。

 関心がものすごく強い。

 その時、僕は生まれて初めて「真剣に会話をした」のだ。

 向こうがそうだったから。「きちんと会話する必要性」が初めて生まれてきたのだ。

 それまで、そこまで深い話をすることがなかった。

 延々と打ち返してくるラリーを、やったことがなかった。

 いつもいつも、会話はすぐに終わった。点々で終わってしまい、話の内容が少しずつ発展すると言うことがなかった。

 初めての体験だった。


 楽しい。楽しい。ものすごく楽しい。

 僕は嬉しくなっていた。
 人とつながっている強い実感を得た瞬間だった。


 そんな体験は滅多にない。

 人間は近づきたくないと思う人に対しては、心を交わさない。

 相手を自分の世界から追い出す。

 相手の心の世界に入れてもらえると、「外された時」もよくわかる。

 自分に嘘をつく。

 
 しかし、最初から心の世界に「生きた人間は誰も入れない」という人が多い。

 人間が嫌いなのだ。

 「この人は理想の人」と思った人とお近づきになったところで、心の中にいる完璧な理想の恋人、ヒーローは手放さない。

 それは誰にもわからない。知られない。

 だが、心の中の偶像を維持するためには、現実の人間と心から接することを諦めなくてはならない。

 彼らは偶像を選び、生きた人間を諦めた。


 僕は偶像を捨て、現実を選んだ。


 殆どの人は、自分がいつか特別扱いされる世界を諦めないために、現実を捨てる。

 そして偶像のヒーローを育てていくのだ。心の中に。

 彼らの心の支えは、心の中に作ったどこにもいないヒーローだ。

 心の世界に引きこもる時にだけ自分を慰めてくれる。

 現実にはやってこない。

 「ひどい現実」と戦う自分の味方なのだ。


 現実はひどいので、心のヒーローのように夢のような存在が現れない限り、誰とも親しくはならないのだ。


 「親しい友達になりたい」ではないのだ。

 それなら現実に獲得できるが、そうではないのだ。

 「特別な人と親しくなりたい」なのだ。

 だから、親しくなる以前に特別な人かどうかの監視しかしないのだ。


 何をしてくれるか、何ができるか、で合格不合格を決める。

 心のヒーローに見合った存在かどうか合否を判定し続けるのだ。


 その一人遊びの方がいいのだ。


 僕はそんなもの欲しくはない。子供のころだけで十分だ。小学校が始まった時から、そんなものはもういらなかったのだ。

 現実に友達になれる子たちが沢山いるのに、偶像と仲良くしている暇などなかった。


 大人になっても、現実を見て生きている人は滅多にいないとわかる。

 成長している人でも、そこまでの段階にいない人が殆どだ。


 ただ、僕はやはりあの感動にも近い喜びを、もう一度味わいたいと思っているのだろう。


 現実には手も繋げない、抱き合うことも笑い合うこともできない、しかし完璧な偶像のヒーロー。

 そんなもの、僕の人生を救ってはくれない。

 理想的かどうかより、実際に一緒にいられるかどうかの方が遥かに重要だ。


 だから、やはり人とは仲良くなるために頑張るのだ。

 仲良くなる努力をして、仲良くなれた人が運命の人だ。


 あなたは運命の人とは、「向こうから理想の人がやってくること」だと思っていないだろうか?

 だとしたら、おかしな宗教にでも騙されないよう、気をつけることだ。










 



 


 


 


Twitter プロフィール
心理療法研究家、カウンセラー。精神分析、非言語療法、歴史、武家教育、仏教etc...古代氏族当主。歴史の流れと合わせて日本人の心理的変化を観察している。IQ150。レジリエンスパーソナリティ。精神分析学を加藤諦三より学ぶ。テレフォン人生相談ゲスト回答者。相談や講座を行っている。
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