Refresher's Blog

人間性心理・教育を研究する最上雄基のブログ。モラハラ、毒親、アダルトチルドレン、社会や歴史を含め広い視野で原因を知っていく。ホームページ Refresherぷらす https://www.refresherblue.com/

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諦めると幸せになれる

 何かに執着すると苦しみが増します。

 諦めた方が楽になることもあります。

 僕は最近、もう自分には無理だなと思って活動しています。

 僕は誰も恨んでいないし、他人を変えるつもりは元々ないです。

 加藤諦三先生の勧めには従ってきましたが、その理由は今も聞いていません。

 なぜ、これが必要なのか僕は知りません。

 そして今もわかりません。

 うちの姉が母以上にすごい人で、暴力的で手の付けられない子になってしまったので、母はいつも姉に折れていました。

 僕を目の敵にするので、姉に花を持たせてやるよう言われ、学校のランクを落とし、成績を下げ、僕が姉には敵わないと社会的に見て思えるように生きる道を進まされ、何もかも姉が怒り狂う度に、譲って譲って生きてきました。

 新しい道を模索しても、少しずつ努力して進んでいけばまた姉が気に入らなくなるので、仕事も変え、人生を変え、とにかく嘆いても仕方ないので新しい道を常に模索し続けてきました。

 他人を妬む人はいます。

 こっちが何も張り合わなくても、どうしても他人の物が欲しい人もいます。

 母が折れ続けたせいで、姉はいつでも威張っている暴君のような人になりました。

 なんで自分ばかりがこんな目に遭わされるのだと思っていましたが、母は「家族が平和になるように」と思ってやっているのです。

 誰も怒らなければ平和になると思っているから、姉のように文句を言わない僕に我慢させ、我儘な姉を黙らせるのです。

 「お前はお姉ちゃんと違って勝ち負けにこだわらないからいいよね」

 いつもそんなことを言われ、今まで計画してきた道を手放してきました。

 しかし、それもいつまでも恨んで他人様に愚痴を言い続けていても仕方ないことです。

 絶望しても、何度積み重ねたものを手放しても、もう一度ゼロから始めていくしかありません。

 何かを持っていると、必ず妬む人はいます。

 他人の力を利用して自分の目的を叶えようとする人はいます。

 加藤諦三先生のところに学びに行った際は、なんとか人生を立て直していくための最中でした。

 勉強することを断念してきたので、やっと知りたいことを学べると思っていました。

 欲しいものは諦めて、持っていたものも売り払って勉強する資金にしていました。

 しかし、もっと学ぶつもりだったのにそうは行かなくなりました。

 ギリギリのラインでいつも生きてきましたが、やっとこれで自分も勉強ができる、と思って行った先にいた先生は、「嫌々勉強させられてきた人」です。

 彼には、「学びたくても学ぶ環境が無い人」の想像はつかないと思います。

 僕の人生の計画は大幅に変わりました。勉強を教えてもらった恩があるのでできる限りのことはしてきましたが、僕はそもそも「他人を変えようという気がない」のです。

 もっと恨みがないと、続けられないことだと思いました。

 何を説明されても僕はそれをどうにかしようと怒りを感じないので、彼は僕には本当に不幸な人の辛い気持が理解できないのだとがっかりしたでしょう。

 彼は不幸な人だったので、僕が何か自分は体験しない「いい目」に遭えたラッキーな人間だと思っていたようですが、僕は彼を見ていても、他人を諦めればいいのにと思っていました。

 僕は争う道を捨て、バカにしてくる人たちを離れ、ただ仲良く楽しくやっていこうという人達と仲間になってやってきました。

 妄想恋愛ストーカー女子のような人には、30過ぎではじめて出会いました。

 近所にいた友人にしても、離婚して近くにきたので密に接するようになってきたものの、仲良くなろうとしてみたらなれない人だとわかりました。

 彼女は親も離婚した夫も、子供も憎んでいました。

 僕は母に対しても恨みはなく、「お母さんも幸せになってくれ」と思って外に出ていきましたから、過去のことのために生きる気はないのです。

 自分が幸せになれたら、人の幸せを願えるようになります。

 他人が不幸でも気にならなくなります。眼に入らないからです。


 僕には、最初から不幸は合わないのだなと思いました。

 続けられないということは、性に合わないのです。

 自分だけがという発想も、「そんなわけない」とすぐに脳内で否定してしまいます。

 僕は、僕だけがこの世で特別不幸な人間であるという事実を、心から信じることができません。

 不幸な人は、自分だけがこの世の主人公で、最も不幸な人であり、他人はみんな酷い人だと心から信じているようです。

 現実的ではありませんが、それを心から信じられる人は、その道を行くために命を授かっているのだと思います。

 人間の能力には限界があります。

 人のせいにしようと思っても、し続けられない人もいます。

 不幸もなれる人が限られています。

 そのための能力がないと、なれないからです。


 最近まで共に生きていく仲間を探してきましたが、誰も共に生きようとしてくれる人はいませんでした。
 僕はどんな人でもいいのですが、人間が好きな人がもう殆どいないのです。

 人と仲良く生きられる人たちは、日本を出ていきたがります。

 今の日本は、幸せを感じる人が生き辛い世の中です。

 自分が好きな自分で生きている人は、出来るだけ日本を出て行った方がいいのではないかと思っています。

 住み分けが大事ですから、今の日本人に必要な憎しみ、怒り、そして恨みを持ち続け、我慢し続けることなど素質のある人たちによって国は作られていくでしょう。

 ネットで争ったり、他人を評価して貶している人たちは日本にとても合っている人たちです。

 我慢こそ日本人の真骨頂といえるくらい、自らの意思では勝手に動かない国民性です。

 日本では生きやすい人間性ですから、どこにでも仲間がいます。

 加藤諦三先生といた時に、「神経症の人を憎んでいないと、一緒に活動できないのだな」とわかりました。
 僕はそんなことは考えてもおらず、元々「幸せになるためにどうすればいいか」の方法を考えてきました。

 人生は、生きている時間をどんな風に使うかで幸と不幸が分かれます。

 楽しい時間を半分過ごしたら、十分でしょう。

 楽しい時間が殆どなければ、人生は不幸に感じられるでしょう。

 そして恨みを持ち、復讐をしたがっている人は、憎い連中が苦しむ様を見るまで、楽しい時間は過ごせません。

 僕は恨みで生きてこなかったので、あまりそうした人たちの群れにいることは慣れないです。

 仲間になりたいと全く思いません。上手に合わせられないのです。

 せっかく今度こそ勉強できると思ったのに、と今でも残念に思っています。

 人生では、やりたいと思っても、何もできません。させてもらえません。

 いつもいつも他人の人生を、自分の目的のために使おうとする人がいるからです。

 幸せになりたいのではなく、復讐したい人たちの群れが不幸な人達なのだと知りました。

 復讐したい人が、他人の幸せなど許すわけがありません。

 自由に生きている人たちを見ても幸せになるわけがありません。


 いつまでも嘆いていなくてはならず、楽しいことは「慰め」でしかないのです。

 過去が大事で、これからはどうでもいいのです。


 結婚がうまくいかない人が多いですが、僕が体験してきた限り、特別なことではないと思います。

 殆どの人は、結婚を「楽園に行けるゴール」のように思っています。

 共に生きる相手と一緒に進んでいくものではないようです。

 女性は「男に縋りついて幸せにしてもらうもの」だと日本人は思っていますが、男に品物のように選んでもらって結婚するものではないと思います。品物のように選んでもダメです。

 僕は好きな人でも、相手をなんの苦しみもない楽園に連れて行くことなどできません。

 日本人の女性は女郎のように育てられた人が多く、気に入られるように尽くしたら、自分を品物のように選んでくれると期待してきます。

 男はそれしかない、と思っているようで、そうではない人がいるという「概念そのものがない」のです。

 互いに品物のように扱い、品評します。

 気に入らないことがあると、酷い人間かのように扱います。

 人を尊重するということがわからないのです。


 夢を見たい人も多く、「いつかこの人が楽園に連れて行ってくれる!」という妄想をし続けるために接している人もいます。

 僕はもう、諦めるものが無くなりました。

 僕ならなんとかしてくれるとか、お父さんになって欲しかったとか、認められたら世界が自分に優しく変わる気がしていたとか、とにかく色々言われたことがありますが、僕には何もできません。

 「この人のために、今の自分に何が諦められるか」と常に考えます。

 一人の時に考えて、「これは諦めてもいいだろう、これは自分の欲であって、ただ自分が好きなものでしかない」という何かを諦めることで、相手が喜ぶ何かをする、というやり方が常で、それ以外に方法はありません。

 これ以上諦めたら、相手を恨む、という限界まで頑張りますが、殺したくなるほど憎くなることもあり、これ以上はダメだ、と自分に言い聞かせます。

 勿論相手は僕を罵倒してきますが、元々出会っていないような相手ですから、通り過ぎるだけなのです。

 僕が本当に親しくなった人たちは、今のままの僕と付き合ってくれました。

 友達にも恋人にもなってくれました。

 そうでない人は、頑張るから「違う僕になれ」と求めてきます。

 本人が望んでいるゴールにいるのは、今の僕ではないのです。

 気の毒には思います。それが売りであるだけあって、話を聞いていると気の毒にはなります。

 みな両親に愛されることなく育ち、これまでうまくいかないことや我慢していることが沢山あって、救いを求めているのです。

 僕は全部諦めてきたので平気ですが、諦めるのは辛いので諦められないのです。

 何かいいことがないと、諦められない。だから誰かに諦められるくらい満足させてほしいのです。

 あるわけのない救いを求めて生きている人を、確かに憐れに思います。

 しかし、僕もできるだけ自分個人の欲にあたることを諦めて生きてきましたが、それでも諦めてあげるにはもう僕が死ぬしかないと思えています。

 意欲がなくなったのです。もうどうでもいい。どうせ何を頑張っても誰かのために使い果たすだけで、いつもいつも、過去の思い出の中の幸せを胸に堪えているだけの付き合いになります。

 相手は、僕がそれで喜んでいないと許せないのです。

 頑張って好意を示したら、僕が驚いて喜んで、相手の望みを叶えに「行かなくてはならない」のです。

 この人、一体どんな人なのだろうか?

 それすら知りません。

 よく知らない人です。

 人間など、本音で接する人でも知って行くまでには時間がかかります。

 装っている人ならば何度あっても「よくわからない人」でしかありません。


 今の僕が好きな人は、僕が生きていく道を決して邪魔しません。これからも共に生きていきたいと思ってくれるからです。

 そんな体験があることが、僕の幸せなのだと最近はよく思います。


 「この人なら望みを叶えてくれる!」と未来の別人である僕に期待する人など親をはじめ沢山いました。

 しかし、そのままの自分でも仲良くしてくれる人など、100人に1人もいないと思います。

 他人になんの期待もしない人。自分自身を好きで生きている人です。

 だからこそ、今の自分のままでも仲良くしてくれるのです。

 どう頑張っても僕にはどうにもできないことがあります。相手がどんなに尽くしてくれようが、僕が自分の未来のために用意していた何を諦めても、夢を見させ続けてあげることはできません。

 そしてもう僕は疲れました。

 もう死んでもいいかなと最近は思いますが、その前に、この道は僕が進みたかった道ではありません。

 もう、この道を進むには無理があるのだと思いました。

 加藤諦三先生はなんの説明もしませんでしたが、彼は「能力がある人間は自由に生きてはいけない」と思っているようでした。

 「私たちは神経症の人たちを、原因である親子関係まで連れて行かねばならない」と仰っていましたから。

 彼にとっては「自分のせいではなかった!親のせいだった!」が救いだったのでしょう。

 しかし僕にとって親のせいになることは救いではありません。


 僕の救いは「あんな風になりたい、彼らの仲間になりたい」と思えるほど楽しそうに、おおらかに生きている人たちの存在でした。

 あんな風に生きることもできるんだ、と実在する人間がいたから思えたのです。


 僕に縋りついてくる女性たちは、僕がもう諦めるものがなくなって何もできなくなると、傷ついた顔で去っていきました。

 何の苦労もない顔で、安心させながら夢を叶え続けてあげなくてはならないのです。

 それは、相手が努力しているからという理由で、確実にできなくてはならないことなのです。

 つまり、他のことはできなくなるのです。人生が破綻します。

 彼女たちにとっては、「今度こそ夢が叶うと思ったのに」という気持ちなのでしょう。

 望んだ人間ではなくてごめんねとは思いますが、僕はその人を元々知らないので、気の毒には思ってもどうにもできません。

 知りもしない、どこかの誰かでしかありませんから。


 人間は、何も持たないのが一番です。

 特出した能力があれば、必ずその力を利用しようとする人が現れます。

 人生で何度もそのような人に出会いました。

 そのような人からやっと逃れ、もう一度人生を立て直そうと意欲的に勉強していれば、また「その力は」と言う人が現れる。キリがないことです。

 もう僕は40代も終わろうという年齢になりました。

 加藤諦三先生に初めて出会ったときは、まだ30代でした。

 あの頃ならできたことも、もう今はできません。

 それ以降に出会った女性とも、あの頃力を合わせて生きていけるならばよかったですが、もうそんな場合でもありません。

 彼女たちは日本の一般的な常識に合わせて、勝ち組になるべく躍起になっていました。

 バカにされないために生きているからです。これからの人生も他人を見返すために使うのです。

 「自分だけが特別」と思っている人は、加藤諦三先生を含めその周囲にいる不幸な人達みな同じでした。
 彼らは「自分たちだけが不幸」だと思っているようですが、確かにそうだと思います。

 僕はそんなに不幸ではありません。

 諦めることができますから。

 ただ、僕など特に何もできない人間なので、自分一人が人を恨まず愛を失わず生きるのが精々なのです。

 その程度は、誰でもできます。

 何がなくても、愛や勇気を持って生きることくらいならば、誰でもできます。

 そうしたい人など、不幸な人の中にはいません。


 僕も知りませんでしたが、こと臨床心理に関わる場は暗いです。

 みんな深刻な顔で生きていて、常に何かを憎んでやっつけようとしています。

 只管に、間違った人間を正すためだけに活動する場なのだと知りました。


 本当に幸せそう、と思える人は見たことがありません。

 学者世界にいる人たちは、子供の頃から猛勉強してきたような人たちばかりです。

 みな真面目だとは思いますが、明るく楽しい雰囲気など誰も醸し出していません。

 軍隊か、ヤクザに似ている、と思いました。

 心理学の場にいる人たちは、逆だと思っていました。

 自然な人間がどんなものか学んでいますから、まず自分が幸せになり、生きていると思っていました。それは間違いでした。


 日本人の多くは、大きな力と共に人生を生きています。

 しかし僕は元々名もない小さな世界を生きる人間です。

 だからこそ、特にやらねばならないことなどなく、自分の考えと判断で生きていくことができるのです。

 社会に義務とされた役割のある人はそうはいきませんが、僕の代わりなんていくらでもいます。

 自分でなくてはならないのは自分くらいで、妄想恋愛ストーカーのように最初から「人違い」の人たちも大勢います。

 ハーバードの幸福研究の話を紹介しましたが、幸福とは瞬間的な体験のことです。

 僕が学生時代の仲間たちとの話をしてきましたが、その瞬間に幸せな時間があったのです。

 生きている中で、そんな時間もあります。

 その時、仲間たちの誰もが今ここにいる時間を過ごしていたのです。

 誰一人として「自分の願望」など叶えようとせずに、今全員がここにいたのです。

 もし、友達を誘導して自分の願望を叶えようとした奴がいたら、そいつだけは幸福を体験できなかったでしょう。

 下心がある人は今幸せを感じることはできません。

 これからもっと手に入れようと欲を出していれば、たった今が楽しいわけも幸せなわけもありません。

 「今、ここにある時間」なんて、これから起こそうとしていることに比べたら、なんでもないことだからです。

 常に、実際に体験している今は、「まだまだ大したことはない」のですから、満足などするわけがありません。


 「いつかはきっと」

 今に満足しない人は、誰かに夢や未来を諦めてもらいながら、夢を持ち続けるのです。


 神経症の人が今まで出会った人達なんて、同じ人間としての価値は全くなかったのだなと残念に思います。

 僕も、母や姉、そして妄想恋愛ストーカー女子たちなど、「期待に応えてもらえなかった」と思われたすべての人にとっては、存在したこと自体に価値がないでしょう。

 それは間違いないです。この人がいて良かった、なんて思えた人は、もうしあわせですから。


 そして殆どの人がそのような体験への恨みばかりですが、そんな時こそ「あの時の幸せ」を思い出し、自分が如何に恵まれていたのか、素晴らしい体験をしていたのか、最高の仲間たちと共にいたのかと実感するのです。


 僕は不幸な人と共に争っていく輪に入れません。

 誰にどんなに説得されても、怒りをぶつけられても、頑張って人を恨んで戦う人生になどしたくないのです。

 加藤諦三先生にも、申し訳なく思ってはいます。

 憎しみから生まれた正義の仲間にはどうしてもなれませんでした。

 しかし、彼と行動を少しばかり共にしたことで、彼の苦労や苦悩も多少なりと理解できました。

 僕はただ人を理解して生きていくしかできないので、楽しく幸せな時間を「生み出す」ために生きていくことにします。


 不幸な人が進んだ先に幸せなどありません。

 幸せな人に変わった人が、幸せを実感して、苦労も実感して、進んでいくだけです。


 沢山の人に出会い、どれだけの人を好きになれるか、嫌わずに生きていけるか。

 自分以外の人は全て自分と違いますから、より広い視野で物事を捉え、そして人を尊重する能力が試されているのです。


 人生を通じて、どれだけ多くの人を仲間として迎え入れていけるか、僕はそっちの努力をしていきたいと思います。


 怒りや憎しみを持って生きる人たちに「そんなことしてたらダメだ」と言う気すら起きないのです。


 どうにかしなくてはならない人たちなのだ、と教えられても、やりたい気持ちが生まれません。

 楽しくないし、面白くないし、人を嫌いになっていくからです。


 社会的には正しいとされる方法で頑張っている人たちもいますが、彼らは元々僕とは全く違う方向性で生きる人格なのだなと思います。

 僕は母に対しても、「幸せになってもらいたい」と願えていましたが、今では他人に対しても「幸せになってもらいたい」と強く思える気持ちが無くなってきました。

 「こんなにしているのに」という絶望や諦め、そして憎しみが湧いてくるようになりました。

 なぜ、彼らを「なんとかしなくてはならないのだろうか?」

 これは、加藤諦三先生に聞かねばわからないことです。僕は理由を聞いていないので。


 僕は、たった今を生きる人と、たった今を生きた瞬間、今を実感して「これが幸せなのだ」と感じることができました。

 たった今を生きる人が滅多にいない今の日本には、今を生きる人はいない方がいい。

 出て行った方がいい、と僕は思っています。

 もう日本は終わる。

 国の形以上に、もう中身はほぼ消滅しています。

 日本人は他人の足を引っ張り、権力を崇拝し、自分ではない誰かの力で生きる国民になりました。

 日本人が思う強い人間とは、怒りと憎しみを強く持ち、社会的に正しい言葉を吐きながら間違っている人間を断罪する人です。

 それが、大多数の日本人が憧れる人間像であり、強い父親像です。


 そのような強い父親代わりの誰かを崇拝し、従い、誰かに救ってもらうために我慢して生きている人々。

 同じ正しいものを崇拝する仲間と共に戦う人生。


 または、現実を放棄して一人で好きにする人生。

 そこに仲間なんていないのです。


 結局、やりたくもないことは後が続かないのです。

 本当は、すぐにやめた僕以外にひとりだけやめたがっている先生がいるので、その人を自由にしてあげて欲しい、と願っています。

 不幸な人達を放っておくのは無責任だと考える人がいますが、もしそうであるならば、幸せな人なんて誰もいなくなります。

 僕は不幸な母を苦しめないために、犠牲となって生き始め人を憎むようになりました。

 母の幸せは僕の不幸。しかし、母は僕が我慢しても言う事を聞いても、一向に幸せになどなりませんでした。

 ただ、僕が高校生になり、仲間に出会い、それまでの「優等生」から一転して好きに楽しく生き始めた頃に、それまでとは違い、懐かしそうに、楽しそうにすることもありました。

 「お母さんも若い頃は毎週のように友達と繁華街に行って…」

 母は結局親の言うとおりに生きて、何もかも嫌になった人でした。

 逆らっても自由に生きようとする僕に昔の自分を重ねて見たのでしょう。

 その頃から、僕が自由に楽しくしていることに寛容な面を見せることがありました。

 自分が変わると、母の態度も多少は変わっていくのだなと驚いたものです。


 母は幸せになれませんでした。

 だからせめて、僕が幸せになっている姿を見せることが親孝行だと思っています。

 今、他人の不幸をなんとかしようと何もかも諦めてあげることよりも、僕や娘が幸せに生きていることを母も願っていると僕は信じています。


 これまでの活動を知ったら、きっと祖母は叱りつけてくるでしょう。

 人様のことを構うほど偉くなったのかと、叱咤することは間違いないと思います。

 黙って人様に日々感謝して生きる。

 それが当然と考える祖母でしたから、あろうことか貴族の真似事をしていると責められると思います。

 どちらにせよ、僕はもう限界です。

 怒りと恨みで生きていないので、関わるところを間違えたのだなと思っています。


 不幸な人を救うなんてことは考えていません。

 僕が、生きるために人様の力を借りて、助け合っていければ十分な人生です。


 僕は元々、親に捨てられ虐待されて育った人間です。

 自分が当事者なので、救ってやる役になるには役不足なのです。

 当事者であるとどうしても個人的感情が生まれてしまいますから、公平な立場になりえないのです。


 誰が可哀想な立場だとか、誰が悪い奴だとか、そんなことを死ぬまで言い続ける人生にしたくはないのです。

 僕は母をやっつけて幸せになるのではなく、母からもらったものを持って幸せに生きていく道を選びます。

 所詮恨みを捨てて生きた人間なんて、頑張ってもこの程度。

 やり続ける度に意欲を失い、他人が嫌いになっていくのが関の山。

 常日頃からあんなに皆に何かするためにちまちまと細かいこともしていたのに、自分はどうしてしまったのかと思えるほど、何もしなくなりました。

 したくなくなったのです。

 こんなに不幸になっていくとは思いませんでした。

 不幸な人達と共に進むと、同じように人間が嫌いになり、意欲が無くなるのです。

 過去に強い恨みや憎しみを持つ人だけが、不幸な人の救い主となる力を持つのです。


 世の中には、恨みや憎しみ以外にも、嫉妬や怒り以外にも、楽しいこと、嬉しいことが沢山あります。

 何を目的に生きるかは、本人の中身次第です。



 どこで道を間違えたのかなと最近は思います。


 こんなはずではなかったのに、もっと楽しく幸せになれるものを作っていきたかったのに、こんなに人を憎んで生きている人たちが大勢いると知りませんでしたから、僕の経験不足です。

 こんなに常に人を罵っている人たち、常に暗い人たちがいるとは知りませんでした。

 が、未だによくわからないのは、単に僕が嫌いなのではないかと思えるのです。

 いくらなんでも好きな人、親しい人にはそんなことはしないだろうと思えるのです。


 僕が知らないどこかでは、明るく楽しくしているのではないか、と僕には思えます。

 どこまでいっても「自分以外の人は想像がつかない」のです。

 どこまでも相容れないのです。



 やる気がなくなるのは、もう書くことも話すこともなくなってきたからなのです。

 どんなに頑張っても、僕から出てくる不幸な話はたかが知れています。

 苦労はしていても、人は憎んでいないからです。


 最近は他の楽しいことの方が良くて、でもそれは不幸な人達の望むものではないと思うのでネタにもならないのです。

 楽しく生きている人には楽しいものは必要であっても、恨み憎しみの中にいる人たちには必要ないものです。

 「見てるだけ」ならば必要としても、実際にやるつもりはないので、ただ見てるだけが好きなのです。


 こんなにも人を憎んで、嫌って、人生を送っている人たちが大勢いると知りませんでした。

 知りませんでしたが、僕には関係ない世界の話なのだとつくづく思いました。

 娘には「チャンネルを分けてやった方がいい」と言われましたので、今後は明るく生きたい人のためのネタとそうでないネタは、別にして分けていこうと思っています。

 とにかく、もうこれ以上テンション低く生きていくことはもう僕には不可能です。

 人にはできないことがありますから、テンションが上がらない人たちには本当に申し訳ないと思っています。

 皆さんも自由にした方がいい、と個人的には思っています。


 社会的には理想的で正しいことであっても、やるかどうかは自由なのですから。


 そして今では僕も、出版社に多く寄せられるという疑問を加藤諦三先生に持っているのです。

 一体、何をすればいいのか?と。


 それは恐らく、彼自身が知りたいところなのだと思います。


 ただ、僕は幸せになるためにはどうしたらいいのかは知っている。

 だからやはり元に戻る道を選ぶのです。

 その方が自分にとって良いのだと既に知っているからです。


















〇〇ファーストに潜む危険 政を執り行っていた一族としての意見

 永らく政を執り行ってきた一族として、大衆には想像がつかないようなのでひとつ意見しておきたい。

 最近流行りの「〇〇ファースト」

 都民ファースト、日本人ファーストなどがあるが、殆どの人は「掲げているものを大事にしてくれるから、都民が、日本人が、良い環境に生きられるようになるに違いない」と思っているようだ。

 それは間違いだ。

 今のアメリカは、アメリカファーストの大統領が就任している。

 何が起きているのかは皆さんご存知だと思う。

 これは、現代で起きていることを見なくとも道理で考えればわかることだ。

 「〇〇ファースト」は対立を生む。

 その目的であるならば、他の国のことも考えた政治が良い。

 少し小さい枠で考えてみよう。

 「私ファースト」

 こんなやつがいたら、友達になりたいだろうか?

 自分のことばかり考えている利己的な人間は嫌われる。人から奪い、与えない。

 分け与えることをしなければ、集団も弱体化する。

 家族の中でも吸い取られる一方の人がいれば、その集団は崩壊する。

 利己的な人間が何を得したと嗤っていようが、集団の平和は守られない。

 発展がないのだ。

 力を合わせないところに発展はない。


 僕の一族は、鉄壁の守りだけで生きてきたと言っても過言ではない。

 侵略戦争はせず、防衛戦しか行わない。

 我々にとって最も重要なことは、敵に勝つことではなく、領民たちと共に生きることだった。

 領地領民の安寧が守られればそれでよかった。

 だから「偉い人なんて誰もいなかった時代」からずっと続いていたが、その時その時、違う支配者が大きな枠の中にはいた。

 最後が前田家だ。

 日本が戦争に負けた時、完全に崩壊した。

 頑張れば誰でも出世できる、の触れ込みの元、それぞれがバラバラに欲しいものを得るために動き出した頃から少しずつ崩壊していった。

 戦わずして勝てる武士こそ、最強である。という結論に到達した我が一族だが、それは間違っていない。

 〇〇ファーストのやり方は、人々の普段の鬱憤から来る怒りを利用する。

 誰の頭の中にも、幸せな思い出など浮かんでいない。

 ただ憎しみがそこにある。怒りによる破壊でしかない。


 「じゃあ日本人がどうなってもいいのか!」と言い出す人がいそうだが、日本人が本当に安寧に、損することなく生きていけるようにするには、他の国と争わないことだ。

 明治以降からなのか、こうした国民性に変わってきたように思える。

 持ちつ持たれつのバランスを、上下、左右と保たねばならない。

 大切なものはバランスだ。

 今、色々な人の思惑なのだろうが、争いを始めたい人たちがいる。

 戦争にしたいのだろう。

 そして日本人の多くは明治の頃既に「情動で動いていた」ようなので、今も似たような動きをしている。

 昔から一部だけは冷静な人がいるのだが、どうも大衆というものは思考せずに動くしかできないようだ。

 皆さんは、クラスの中の数人のグループが、弱い者から奪いまくっていたら、その後どうなると思うか。

 一時は奪えるだろう。だが必ず見ている人たちがいる。

 奪われた人は逃げるか、助けを求めるか。

 そのまま奪い続けることなどできない。

 やがて崩壊する。

 ただでは済まない。

 奪った人間は、次の場でもまた奪おうとする。その連続だ。

 いつまでも奪い続けながら、安心して生きることなどできない。

 いつもどこか不安だから、敵でもない人が敵に見えてくる。

 そのうち争わなくてもいい人を敵視して疑いを口にしたりするようになり、恨みを買う。


 争いは、最初から起こすか起こさないか決まっている。

 どうも短絡的な思考しかできない人たちは「正義が勝って終わり!あとはずーっと平和!」という漫画のような続きのない世界を思い描くらしい。

 そんなことは不可能だ。世界は繋がっている。時も続いていく。


 僕は、自分たちが平和に生きていけることこそ重要なことだと思っている。

 だから争いを起こさなくてもいいと思うし、最初から戦いになる発想で進まない方がいいと思う。


 戦争を美化する人は、自分が戦いに出ることを現実的に考えていない。

 今、死ぬわけでもないのに社会の力に屈して我慢しているような輩が、命を落とす戦いに行くなどできるわけもない。

 戦争を賛辞する人間が、今、職場で上司に言いたいことも言えない。

 片腹痛い。

 命を賭して戦場に行けるかのような勢いでカッコいいセリフを吐く人間が、今、命もかからない場で「目上の人間のご機嫌取り」なのだ。

 こんなにみっともない姿があるだろうか?

 気の毒でバカにする気にもならない。

 言うだけタダだ。

 口先だけならいくらでも言える。

 だが、現実に命を懸ける覚悟があるのか。

 他人の命で戦争に行く気なのではないか。

 
 今、他国ともうまくやっていて、国内も充実している国があったら、皆さんはどう思うか。

 「自国のことだけ考えて、他国に得なんてさせちゃダメだ!」と思うだろうか?

 それとも「日本は今損している状態なんだから、戦うべきだ!」と思うだろうか?


 僕は最終的に、どこに到達すべきかの話をしている。

 本当に最終的に「日本人ファースト」を目的にするならば、そこを大々的に掲げてはならない。

 ならないし、それを大々的に掲げている人たちは何か他の目的がある。

 
 今、選挙の話題が目に付くが、「怒りで演説している情動的な人」は決して選ばない方がいい。

 と僕は思う。

 感情で選挙に出ている人間は、感情で動く政治しかしない。これは人間性の問題だ。

 政治家が口先で言っていることなど、どれを聞いても同じだ。

 口約束でしかない。

 だから一番どこを見た方がいいかと言えば、やはり人間性だ。

 誰かだけ得するというやり方では、結局崩壊を招くとわかっている程度の賢さと、他人の意見が否定的なものであっても冷静に聞き入れるだけの精神。

 そして、本人が必ずリスクを背負っていること。

 皆さんは今、参院選と聞いたら、「参議院議員を選ぶのだ」と思っているかもしれない。

 確かに、形の上で当選したら参議院議員になるだろう。

 だが、「どんな人を選べばいいか」を考える時は、内閣総理大臣を選ばなくてはならない。

 いずれ頂点になれる人を選ばなくてはならない。


 僕は今、何も持たないド底辺だ。

 だが、中身は違う。

 頂点に立つ人間は、どうやって作られるのか?

 その肩書を与えられたらいきなり中身が変わるのか?

 それはない。

 江戸の頃にも、「命じられて派遣された代官」が不正を行い領民から巻き上げる事態が発生している。

 いきなり偉くなると、そんなことをする人がいる。

 中身は最初から頂点になれるように教育しなくてはならない。

 仲間たちとの協力を既に体験していて、人を見捨てることを良しとしない精神が「既に」備わっていなくてはならない。

 だから、内閣総理大臣を選べばいいのだ。

 国会で上の立場にある者が卑劣なことを考えても、猛抗議できるような精神が必要だからだ。

 上に立つものに隷属する人間は、上に立つ人たちの考えが「国民にとって良いことかどうか」など考えない。

 自分ファーストだからだ。

 自分の利しか考えないからだ。


 自分の願望を叶えるために他人を使おうとする輩は、誰でも見てきている。

 身近にいる。

 そうした人間が、人望を集めている様を見たことがないだろう。

 
 今、日本は確かに窮地にいるとは思う。

 だが、だからこそ情動で動いてはならない。

 なんとなく選挙に行ったり行かなかったりでも「なんとかなっている」と思えた時代が遂に終わりを告げているのだから。

 「夢を見させてくれてありがとう」

 と政府に感謝して、そろそろ自分の人生から真剣に考えていくことだ。


 そして、社会を動かさなくては生きていけないと思うことはない。

 個人レベルの話をするならば、日本を離れたっていいのだ。


 とにかく、後先考えずに利己的な妄想をしている人は、庶民だろうが政治家だろうが、崩壊しか招かないのだ。

 それについては、皆さんも納得できると思う。


 という、個人的意見でした。
















真実の自分を存在させてもらえなかった子

 YouTubeに本当のことを言っても信じてもらえず、存在していることそのものを拒否られた子、ということで僕の話を例に挙げて説明しています。

 こんなに深刻な事態に陥るきっかけになっているとは、誰も思わないかもしれません。



 それから、Refresherぷらすの有料会員向けの記事に、ハーバードの幸福研究についての記事を紹介しています。「幸福になっていた人たちがしていたこと、子育てのヒント」について書いています。

 いつものことながら、「今までやってたじゃん」と言いたい内容が書いてありました。

 本当に幸福になれた人たちの共通点から出した結論ですから、不思議はないのですが。

 人付き合いは「親が手本を示す」については、僕もやったことがあります。

 仕事の中でやってみたのですが、やっている内容は正しいのですが、そもそも「他人にどう見られているかしか気にならないから、見せて教えるのは無理なのだ」と理解しました。

 子供の頃から親が他人に能動的に関わっていく姿を見せて、実際に付き合いを体験する中で学んでいくのです。

 本物を見て育たなかった人は、どんなことするのか知らないと思います。

 どうするのか?と言った方がいいのかもしれません。

 人にあげる何かを用意していたり、近所の人と知り合い顔見知りになって行ったり、交友関係を広げていくやり方もそのまま見て覚えます。

 観察学習大事ですからね。

 小さなおもちゃのようなものを用いて教えたり、本当にちゃんと正しい方法を教えてきたんですけども、ほんと意味なかったです!

 なんの意味もなかった!

 びっくりするくらいに!

 最初からやらなきゃよかった!と思うくらい、なんの意味もありませんでした!

 幸せになれる人が学ぶだけの方法であって、神経症の人はそういうもの教えられても、今更意味ないのかと思いましたね。残念ながら、僕も実践してみて驚きました。

 「嘘をついてはいけない、と言葉で教えても、親が嘘をついていれば子供は嘘をつくようになる。」

 これは最近AIについてインタビューに答えていたユヴァル・ノア・ハラリ氏のコメント。

 ほんとそうなんですよ。だから本を読んだり名のある何かで知ったりしたことを、そのまま知識自慢的に子供に説明しても、そんなことできるようにならないのです。

 真似して他人に知識自慢するだけです。

 やはり行動は大事なのです。

 でも今回紹介していたワシントンポストの記事、僕にとっても嬉しいことが書いてありました。

 五十歳の時に人間関係が良好だった人は、八十歳の時に最も幸福だったとか。

 幸せな人の共通点は「人間関係が良好」。これは絶対に外せないことですね。

 それにしても、ハーバードは規模がでかいです。

 700人の被験者とその子孫1300人を80年かけて調査。

 さすが、予算が違う、と思いましたが、最近トランプさんのことで支援を受けられない事態になっているのは心配ですね。

 日本人はステレオタイプが多いので、遠くから肩書ある何かで教えられないと、何より「全員に教えてもらえるもの」でないと信じない場合が殆どですね。

 でもちゃんと教えてますから、ほんと実践してほしいなと思っています。

 その通りにやったら本当にその通りうまくいく方法ですから。

 あちこち遠方にいる方に声をかけていますが、以前ネットワークを作っていくことが大事なのだと説明しました。

 遠くの知り合いの方が状況が似ないので窮地に助けになる、という脳科学で調査した結果も教えましたが、人間のキャパシティでは付き合いができるのは15人が限界だそうで、家族、友人、恋人や職場の人たちで大体埋まりそうですね。

 日常的に共に並行して生きている人たちの数であれば、そんなところでしょう。

 今はSNSの普及で、キャパオーバーしている人が沢山いると思います。

 人付き合いに翻弄されていそうですね。


 今回アップした動画も非常に重要な話で、結構この手の虐待を受けた人はいるのではないかと思っています。

 自分が親になってこんなことするなんて信じられないなと思いますが、僕自身はやられていましたね。

 同じようなことをされた人は、自然な自分で生まれてきて欲しいと願っています。


















 

 
 



日本人は無自覚に奴隷化している

 本当のことを述べるので、自分の頭で考えられる人は考えて欲しい。

 今現在、日本人のほとんどが奴隷化している。

 自分の考えを持っていない。

 「普通は」と言いながら、自分の考えもないのに全体で同じ答えを出して、それに従おうとしている。

 おかしなことが起きる。

 「私はちゃんと立派な妻だった」

 と思っている人がいる。

 しかし、

 「夫がちゃんとした夫じゃなかったから、夫婦は破綻した」

 と言う。

 これが「おかしい」とわからない人は、もうこれ以上僕が書くことを読まなくていい。

 僕も知らなかったが、思考力、特に想像力や感覚というものは、ある程度のライン以上のものが既に備わっていないと、誰もが同じことを教えられて理解できるわけではないらしい。

 妻がちゃんとしていて、夫はちゃんとしていない。そして夫婦は破綻した。

 夫さえちゃんとできていれば、夫婦はうまくいった。

 では、夫婦とは何か?

 この部分に疑問を持てないと、カルト教団的な洗脳から脱することはできない。

 先に結論から述べると、「ちゃんと~しなくてはならない」なんてものはない。

 「普通」にしていないから犯罪だと言うならば、警察に行けばいい。

 「うちの夫はちゃんとしていません!」と警察に通報でもすればいい。

 自分の考え方がおかしくなっていることに気づかないと、洗脳は解けない。

 そんな決まりはない。夫婦が破綻したならば、それは二人ともの失敗だ。

 ここで「どっちが正しかったか」で張り合うのが、自分が品物だと思って生きている人だ。

 「ちゃんとした人」として生きていれば、いつか誰かが評価してくれて、認められたら幸せになれると思っている。

 これが「奴隷」として生きている人だ。


 こんな事件があった。しかもうちの近所で起きてニュースになった。

 小学校の男性教諭が、自分の担当するクラスの女子児童と何度も性行為に及んでいたというものだった。

 男性教諭は逮捕された。女児の母親が娘から話を聞き、通報したからだ。

 男性教諭は三十代。妻も子もある身で、性行為に及んだ場所は自宅の中だった。

 こんなことを知ったら、男性教諭の妻は狂乱するのではないかと思える事件だ。

 裁判で男性教諭が裁判官に質問された。

 幼い子供と成人男性が性行為をした場合、子供の体に後に残るダメージがあるかもしれない。

 それについて考えなかったのか、と問われ、男性教諭は「そこまで考えが及ばなかった」と答えている。

 更に裁判官は質問した。

 男性教諭は小学校の高学年向けの性教育を担当していたという。

 「一体どんな気持ちで子供たちに性教育をしていたのか。」

 こう聞かれた。なぜそんなことを聞きたくなるのかは、その前の質問を考えれば、さすがに大多数の人はわかると思う。

 そこで、男性教諭はこう答えている。

 「子どもたちに正しい性の知識を身に着けて欲しかったから。」

 この答えに唖然とする人もいただろう。


 しかし今回言いたいのは、「なにを言っているんだこいつは」なんて話ではないのだ。

 もっと深く考えて欲しい。

 この男性教諭は、「ちゃんとした社会人」であり、「ちゃんとした夫と父親」をやっていた。

 そして「ちゃんとした先生」でもあった。

 女子児童とは、これはあり得ないことなのだが恋愛関係的な感覚で性行為に及んでいたらしく、女子児童も先生に対して好意があったと述べている。

 しかし、これは心理的にそう思わざるを得ない状況である状況なので、当然それは考慮されている。幼い子供にそんなことは理解不可能だ。

 人間は「怖いこと」が起きていると、それを違う事実のようにすり替えて認識することがある。

 自分が安心できる別の状況に置かれていると認識することで、心理的安全を図る。


 この男性教諭、ちゃんとしているだろうか?

 そんなわけない、と誰もが思うだろうが、それはニュースになった性犯罪が事件となったからであって、他の部分は「ちゃんとしている」のだ。

 「でもその部分があったら」と思うかもしれないが、そこだけ直すことはできない。

 男性教諭の答えはおかしい。

 子供たちに正しい性の知識を持って欲しいと思って教えていたら、自分は考えなく小学生の女子児童と性行為をしない。

 「正しい知識」があるのだから。そんなことをしてはいけないとわかるはずだ。

 彼の所持品などから、元々幼い子供に対して性的な欲求があったらしいことは確認されているし、本人も認めている。

 ロリコンかよ!と一言で片づけることなかれ。

 それは「冷静に考えるべき部分」を考え切ってからにしてほしい。


 これは気をつけて欲しいところなのだが、僕も口が良い方ではないし、軽口をたたくのも別に構わないと思っている。

 だが、「真剣に考えるべきところを考えきって自分の考えや結論がはっきりしてから」にしてほしいと思う。

 自分の考えもないうちに、他人と議論するなど愚の骨頂。考えのない人間が「意見」など片腹痛い話だ。

 自分がどう思うのか、なぜそんなことを言うのか、突っ込まれた時に出てくるのがこれだ。

 「子どもたちに正しい性の知識を身に着けて欲しかったから。」

 つまり、今回言いたいのはそういうことだ。

 一般的に正しいとされることは、誰でも考えなくても言えるのだ。

 しかし、それがただの模倣でしかないならば、意味はないのだ。

 言っているだけ。その結論を出すだけの経験、哲学、何もない。

 なにより、この男性教諭は「ほしかった」と言っている。つまり自分の望みだということになる。

 ならばやはり矛盾しているのだ。

 クラスの生徒の一人が、その女子児童だ。

 その女子児童に「正しい性の知識」を身に着けて欲しいならば、そんなことをするわけがない。

 自分の欲望に負けたのだ。

 単純に嘘、と言えばそれまでだが、逆に現実を自覚できていれば、裁判の際のその質問にスラスラと「普通のこと」は答えられない。

 言葉に詰まるとか、反省の言葉を述べるとか、現実に自分がしたことに相応しい態度や発言があって然るべきなのだ。

 しかし、「どんな状況でも、切って貼ったように正しいことを述べる」が板についているのだ。

 正しいことを言えば、褒めてもらえる、認めてもらえる。

 と思って生きてきたからやっていることだ。

 しかし、その状況でその発言。

 それは立派な心構えだ、と誰かが褒めてくれるだろうか?

 僕としては、女子児童の方は勿論だが、この男性教諭の妻もどう考えてもロボット的な人だっただろうから、これを機に深く考えて、子供がいることだし健全な思考の方に向かって欲しいと思った。

 こんな夫と一緒にいられるのだから、妻もどう考えても問題はある。

 いきなり矛盾するわけではない。最初からずっと矛盾した人格をしていたはずだ。

 健全な思考の人は、おかしなことを言ったりやったりする相手と、長く関係がつづかない。

 実際体験すると、少なくとも健全な関係を作る側からはわかるのだが「直接のやり取りが全くない」のだ。

 表面だけ、お互いに「いいとこ見せ合うだけ」で、いつまで経っても始まらない。

 妄想恋愛ストーカー女子も、いつまで経っても自分で言い出したのに「恋人にはならない」のだ。

 お付き合いする、ということになっても、恋人にならない。

 「お付き合いします」と言ったら、もう恋人同士だと思っている。

 付き合い方が何も変わらないのに、恋人同士になった気になっている。なっていない。

 我慢しているからという話ではない。実際に自然にお付き合いしてもしなくても関係ない。

 「私はこんなにちゃんとしてますよ。私はこんなにできるんですよ。」

 という披露会が終わらない。それはもうやめていいやつだ。お付き合いが始まったら、自分を良く見せるなんて必要はない。

 本当に付き合いを始めればいいのだ。

 しかし、もう完全に「自分がない」のだ。

 自分がないから、何をしても、何を見ても、必ず出てくる答えは「一般的に良いとされること」なのだ。

 自分のものではないのだ。

 しかし、それでも機能社会ではやっていける。やっていけるが、今回例に挙げている事件のように、内面的には「自分がない」のでただの欲望、願望のままに動き、こんなことにもなる。

 人のせいにして自分のしたことを「自分がしたのではない」として生きていくと、こうなる。

 「あの人が何をしたせいだ」と言い張る。

 相手に何か指摘されて気に入らないと、「それはそっちのせいだ」と言い返す。

 まともな関係は作れない。

 そして成長もしない。人のせいにするから、それは自分の行いだと自覚できない。自覚できないものは改善のしようがない。


 今や日本で洗脳されていない人を探す方が難しい。絶望的な事態だ。

 それでもまだ、世間に「みんな洗脳されているから」と笑っている人々がいる。

 まだ集団化しているのだ。

 そのくらい酷い。


 洗脳から目を醒ますためには、自分だけで考えなくてはならない。

 一人で考え、一人で結論を出す。結論を出せるように、確認をする。


 常に誰かに教えてもらい、「これでいいんだよ」なんて決めてもらっているうちは、洗脳されたままだ。

 誰かの言っていることを聞いて安心したがるのは、一人で結論を出す不安に耐えられないからだ。

 「そうかどうか、正しいかどうか、わからない」

 この不安に耐えられないのだ。

 自分がそう思うだけだから。

 だから、それが「自分の意見」なのだ。

 その「自分の意見」が常にあって、はじめて他人とも意見交換ができるのだ。


 良さそうなことをスラスラ言えるのに、自分の意見を、と求められたら思考停止する。何も出てこない。

 そんな人が日本人には大変多いので、時々僕は外国人に聞かれるのだ。

 「日本人ってなんで誰に聞いても同じ意見を言うの?」

 これに答えられるだろうか。

 なぜ、誰に聞いても「自分はこう思います」と同じ答えを言うのか。自分は、と言っているのに。全員同じ人なのだろうか?

 なぜ、誰もが社会で一般的に正しいとされる意見を持っているのか。


 一般的に正しいとされる考えは、そのほとんどが「理想的なもの」だ。

 しかし、それぞれ環境や背景、今に至るまでの経緯など様々な点において違うから、意見はバラバラであるのが当たり前なのだ。

 その違う意見をそれぞれが出して、そして「じゃあどうするのがいいだろうか」とみんなで一緒に考えて、不公平がないよう、全員が納得できるよう、みんなで話し合った結果が「現実に良いとなったその集団の中での結論」となる。

 一人はお絵かきが好き。一人は公園で遊ぶのが好き。一人はゲームをするのが好き。

 そんな時は、みんなで話し合う。

 そして全員の意見とは違う、それでも全員が納得する結論を出す。

 一人でやりたいことは、一人の時にする。

 みんなでやることは、みんなで考える。

 それで全員が不満のない遊びで一緒に楽しむことができる。


 先に書いた妄想恋愛ストーカー女子たちは、この部分がなかった。

 相談者に聞いても、「家族の中で確認はなかった」と答える。

 わからないのに、誰も聞かない。

 なんだかわからないまま、確認することもなく、何を考えているのかわからない家族と一緒にいるのだ。

 考えを述べたら誰が正しいとか間違っているとか、そんな話になるのは「一緒にいたくないから」だ。

 一緒にいたい人たちは、どんな考えがこれから出てくるかに関係なく、もうそこにいる全員と一緒にいることが決まっている。

 より良い方法はこれから考えていくのであって、たった今の結論を一致させる必要などない。

 全員が本当のことを言わないと、これから先不満が出てくる。我慢していたなんて人がいれば、後で困る。

 今ここにいて意見を求められるならば、言ってもいいからなのだ。

 通常はそうだ。

 しかし、それもまた「通常正しいこと」でしかない。

 残念ながら、日本社会ではそうなっていない。

 僕は自分の意見を述べるが、自分が考えた意見を述べたら排除されることばかりだ。

 だから誰も意見しない。排除されないために意見はしない。

 何が起きるかわからないので、我慢しているのだ。


 そして「良さそうな意見」を述べることに専念した結果、「自分の考えがない」という大人で溢れてしまった。


 洗脳から脱した時、僕はわからないことをわからないと言っても大丈夫そうな人を相手に聞いた。

 「みんなはなぜこんなことしてるの?僕はそんなこと教えられていない。」

 これが必要なのだ。疑問を持つこと。そして確認すること。


 洗脳されている人たちは、疑問がない。

 誰かと一緒になって怒っていることは多々あっても、「不思議に思っていること」が何もない。

 責める、怒る。

 それは誰でもやっているが、何も不思議に思っていない。疑問が全くない人生を送っている。


 だから成長しないのだ。

 疑問がない、ということは、この世に不思議に思えることが「生まれてこのかた一度もない」ということなのだ。

 ただ、教えられたことがおかしいとか、間違っているとか、そんな風に不満はいくらでもある。

 だが「なんでこんなことしなくちゃならないのかな?」と素朴に疑問に思うことが何もない。


 それはある意味正しい生き方かもしれない。

 この社会で安心して生きていくためには、正しいかもしれない。

 全体を洗脳して利用する場合、最初から疑問を持たせないように教育していく。

 僕のように疑問を持つ人間は排除されるから、みな国外に出ていく。

 しかも出ていく人間は、みな賢い。自分の考えあって出ていく人ばかりだ。

 違う意見を言う人がいなくなれば、誰も気づくきっかけを得られない。

 悪循環に陥る。


 外国から戻ってきた人でも、今度は外国に感化されているだけで、自分の意見はないという場合も多い。

 誰かと意見を一致させて、気に入らない人間を排除している人々。

 そのような人たちが「これこれであるべき」を強化している。


 少数派を排除して安心しようという動きは、全体に広まっている。

 不安の間違った解消法だ。


 不安ならば、自分の考えを持てばいい。

 自分一人で考えて結論を出す。それから人に質問したり、意見したりする。

 確実にそれを頭の中で行うよう、訓練していくのだ。


 どこまで行っても「誰かに教育してもらって、正しいことがわかる、できる人間になって、他人に認めてもらって、安心して生きていく」をやめない人たち。

 自ら奴隷になっているのだ。

 一人で考えないのだから。

 「でもさあ」と早速人に聞く。

 他人に文句を言っても何も始まらないのに、他人に文句を言って黙らせて、今までの自分が正しいと認めさせて、終わる。

 自分が本当に正しいならば、今既に満足して生きている。

 納得して生きている。

 しかし、何を聞いても見ても、とにかく他人と議論して正しいことを決めようとするのだ。


 一人で先に、頭の中で結論を出すまで考えている人と、考えなく発言して自分の結論をみんなで出している人がいる。

 この違いは大変なものだ。

 自分の考えがない人が親になると、感情で子供を操作する。

 恐れ、不安、負の感情を操ることで、子供を動かそうとする。

 子供は不安になると慌てて動く。正しいと認められそうなことをする。

 そして社会的には立派なことをして安心しようとする。


 「何も問題ないちゃんとした人」になって生きていく。

 その「何も問題ない人」が、いきなり性犯罪で捕まる。

 何も問題ない人のふりをしていた、問題大ありな人だったのだ。

 いきなりそうなったわけではない。

 一般的に正しいとされることをやるなど、誰にでもできる、簡単なことだ。

 環境さえ整っていればいいのだから。

 自分の感情を無視すれば造作もないことだ。

 しかし、「感情を無視して別人のように生きる」となればストレスは溜まる。

 何も問題ない人生になれば、望むことは現実の世界にないから、妄想が広がる。

 いきなりパッとすごいことを起こそうとしたり、ドラマチックな展開を期待する。


 小学生児童を犯したこの男性教諭は、確かにたまたま犯罪者になった。

 しかし、いつ何時そうなるかわからない人は日本に溢れかえっている。

 そうなるように、「ちゃんとした社会」を作っているのだから。そのしわ寄せは必ず出てくる。


 そして理想的ではない行いをした人を叩いて叩いて、どんな細かい粗も消そうとしてより深刻な事件を起こす未来を生み出すのだ。


 他人の罪を自分の罪のように感じられるのが、共同体感覚の強さだ。

 それが友達、恋人、夫婦間ですら起きていない。

 相手を見捨てて、裏切って、自分だけが「ちゃんとしてました!」と言い出す。

 そのように仲間と呼べないカルト教団の裏切り者が大多数になった時、この社会は「理想の国」になる。

 今、ほぼ理想の国になった。

 ちょっとでも悪いことをした人がいたら、躍起になって多数で叩く。

 これこそ、「ちゃんと正しいことをしている国民たち」なのだ。

 自分たちはちゃんと正しいことをする。そうでない人がいたら排除する。

 完全に排除しきった時に、この国は楽園のような理想国家になるのだ。


 勿論、僕はそんな国にいたいと思わないが、ちゃんとした人たちは人を排除する優越感を褒美に生きているようなもので、彼らのゴールは元々存在しない。

 いつか誰かに認められるなんてことはあるわけがなく、ただの兵隊、奴隷だ。


 人間なのだから、どこに生まれても好きにすればいい。

 自分の望みをかなえてもらうことはできないが、嫌われるのさえ自由だ。

 社会の正しいとされることに従い、それにより優越感を持つのも自由。


 全員が最初から、自由に生きている。

 それに自覚がないのは、自分が今なんのために生きているのかわかっていないからだ。


 だからせめて、「自分がなぜこう思うのか、こうしているのか」を本当の理由を持って説明できるように、自覚しておかねばならないだろう。

 自分、という人間を誰かに知ってほしいと思うならば。

 「いいこと」しか言わない人を、誰も知ることはできないのだから。




















 




 
 

 

 

家庭独自の教育が人生を変える

 日記。これは僕が恐らくそうだろうと思っていること。

 僕の家の人間は、社会では全員そこそこ優秀になっている。
 成績や学歴の話ではなく、能力的な話だ。

 悩んでいる人々を見てきて、特に技を体得させようとして気づいたのだが、ひょっとして基本教育を受けていないのかもしれない。

 マニュアル化されて世間で全員に行うことではなく、家庭内での教育のことだ。

 礼儀作法のことでもなく、決まった何かではない。

 そのひとつが、集中力を養うための教育だ。

 名前は知らないし、最近になり自分が受けていた教育の内容を考えてわかったことだ。

 家の中で行うお手伝いのような内容なのだが、それは意図的に行われる教育、修行だ。


 残念なことに、思い出そうとしてもよく思い出せずにいる。

 同じものを沢山用意されて、只管同じ作業をさせられたりしたのだが、一体何をしたのだったか。

 
 覚えているもののひとつは、食器洗いだ。

 ただ洗い物をして終わるのではなく、何度でも繰り返す。

 横で親が見張っている。

 見る。やる。を繰り返す。

 「お前は今、手だけ動かしている。見たままただ手を真似して動かしているだけだ。意識しろ。」

 こんな風に指摘されながら、違う、違う、と何度もやり直しさせられ、集中して行えるようになるまで繰り返す。

 意識を使う、という技を体得する。集中力を養う。


 五歳か六歳か、そのくらいから始める。

 僕はかなり手遅れレベルの年で始められたので、もう七歳にはなっていた。


 因果関係は、もっと幼い頃に教わる。

 してもらったら、してあげる。

 お返しをするという意味ではない。

 「してくれた人の苦労を自分が体験するため」

 自分の目の前にやってきたものが、どうやってやってきたのか。

 幼いうちは体験がなく、想像がつかない。だから実際に全て行って想像可能にさせる。

 そうすることにより、何かをもらった時に「これはどこからきたのか」と自然に考えるようになる。


 そのような幼児教育を、悩んでいる人たちが受けていないようだったのだ。


 だったら、人の気持ちなんて想像しなくても不思議はない、と思った。

 なんでもやらせてみないとわからない。

 そして思考は行動から生まれる癖となるので、繰り返すことで自然と目の前にあるものがどこから来たのか考えるようになる。

 全てのものが何かと繋がっていて、ここにひとつなにとも無関係に存在しているわけではないのだ、と段々理解していく。

 様々な「考えもしないこと」を考えさせるためには、このような教育が必要だ。

 ただ、この手のことは社会で義務化されていない。

 よって、親の教育、家の教育に全てがかかっていると言っても過言ではない。

 学校では勉強を教えるし、集団生活の中で必要なことは教える。

 しかし、友達との付き合い方については、親のサポートが不可欠だ。

 友達と喧嘩して怒っていること、傷ついていること、必ず起きる事態だ。

 そんな時に友達を悪者にしたり、どっちが正しい、悪いと言い出したら子供は他人と仲良くしていけない子になる。

 どちらかが悪者になるような判断を親が下してしまえば、わかり合うという付き合い方ができなくなる。

 親は勝手に判断してはいけない。思うことがあっても、言わずに子供に解決させなくてはならない。

 自力で乗り越えさせるためのサポーターなのだから、親は代わりに問題を解決などできない。


 最近は自分が教育しないのに学校に責任を押し付ける真似をする親がいるから、先生たちも大変なのだ。

 自分の子がいじめで自殺したのに、学校の先生が気付いてあげなかった、と責められる。

 自殺するほど悩んでいるなら予兆は必ずある。生まれた時から毎日一緒に生活している親が気付かないのに、先生の責任にするのはお門違いだ。

 まず「自分が気付いてあげられなかったこと」についてショックを受けるのが普通の親だろう。

 自分の苦労に気づいてくれない、と恨むのは子供だけでいい。

 親がそんなことをしたら、子供は誰からも気づいてもらえない。

 まして何十人もの生徒をいっぺんに見ている先生に、ひとりひとりの日々の細かい変化に完璧に気づけという方が難しい。

 先生たちも人間だ。自分の生活、家族のことで悩んでいることだってある。

 いつだって変化なく存在している人間はいないのだから、周りにいた人たちそれぞれが自分の責任を感じたとしても、最も重要な存在は親であることは間違いない。

 しかし、そんなおかしな話が社会的に当たり前のように受け入れられていて、学校側を批判している人たちも殆ど疑問を持っていない。

 なんとなく適当にやっている。


 しかし、なんとなく適当にやっていればいいわけではない。

 思考するにも、集中力は必要だ。

 自然と発達することもあるが、訓練することで誰でも育てることはできる。

 自己教育しか大人になったらやることはないが、子供のうちは他人が育てることもできる。


 見せびらかすための努力をしている人の場合は、これが終わっても誰も褒めてはくれない、という行いに全く興味がない。

 だから自分自身の能力は開花させられない。

 または非常に難しいと言える。


 教育について疑問が湧いたのは、僕が「当たり前にできる」と思い込んでいたことを誰もできなかったからだ。

 体得してしまえば人格だってまるっきり変えることはできる。

 新しい人格を体得すればいいからだ。

 だが、集中力がなくなってしまったらどうにもならない。


 この場合は、ふたつのケースが考えられる。

 ・実際には集中力を持っているのに、ノイローゼ状態等で一時的に集中できない人

 ・元々養ってきておらず、集中力がない人

 どちらにせよ、ノイローゼ状態の人はそこから快復する方が先だろう。


 僕はうつ病になったことがあるが、その時はどうにもこうにも集中できず、ノイローゼ状態でもそれはあるのだが、とにかく「今までできたはずのことができない」という状態になる。

 何をしてもすごく疲れる。意欲が維持できない。

 そんな状態になる。


 そのような状態の人は、あくまでも一時的なものなので、精神的に快復すれば元々の力が発揮できるようになるだろう。

 様々なケースがあるので、どのやり方が正しいとは言えないが、少なくとも自分が特別だと思っているナルシシストの場合は、現実に直面するしかない。


 そして教育については、行った場合とそうでない場合は明確に違いが現れる。

 それは僕自身が、自分と姉の違いで確認してそう思っている。

 僕は一族の武家修行らしきものを行ってきた。

 姉は一族と離れ、父と母の新婚ごっこの中で育った。

 だから父にそっくりで、教育を受けずに幼児期を過ごしてきたのでその後の教育も素直に受けることなく、今も傍若無人で人の気持ちがまったくわからない人になった。

 ただ怒鳴ったり責めたりすることで他人を動かして喜んでいるが、友達はいない。

 慕われる、ということがないために、代わりに怒鳴りつけて命令している、と言える。

 うちの人間でありながら、賢さがない。

 誰が、どのように、どんな環境で教育してきたか。

 これは生涯を通じて変わることはない部分なので、後からどうにもできない。


 そうした意味では、僕のように完全に割を食って生きてきた人の方が、自力で克服したり修正したりする可能性があるだけマシだと言えるだろう。


 人生を通じて人をバカにして威張っていられる「優越感」を幸せと呼ぶか、謙虚に人を尊敬し、感謝して感じられる「一体感」を幸せと呼ぶか。

 これは違いの問題ではなく、一体感の方が本物の幸福と呼ばれるものだ。

 同一感ではなく、違う存在でありながら、見えない繋がりを持っていることを実感し、感じる感覚。

 「自分は愛されている」

 これが感じられる人は、想像力があるし、人の身になって考えられる。

 「いま、ここにあるものは一体どこからやってきたのか」

 そんな想像をする思考が癖のように身についていることは、幸福な人生を送る上では非常に重要なこととなるだろう。


 しかし、現代社会では、ことそのような能力を身に着けさせる教育をしていないのが現状だ。

 他人に勝つため、人より多く得るため、自分だけが特別な存在だと認めさせるため、と、欲深く生きている現代社会人は、多くのものを得ながら今日も憂いている。













 
 






Twitter プロフィール
憎しみを育て正義を振りかざすより、正義を育て憎しみを断つ。毒母でも母が好き。心理教育研究家、カウンセラー。幼少期から生きる基本が精神修行。武家氏族末裔。歴史の流れと合わせて日本人の心理的変化を観察している。ギフテッド、レジリエンスパーソナリティ。テレフォン人生相談ゲスト回答者。相談や講座を行っている。
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