Refresher's Blog

人間性心理・教育を研究する最上雄基のブログ。モラハラ、毒親、アダルトチルドレン、社会や歴史を含め広い視野で原因を知っていく。ホームページ Refresherぷらす https://www.refresherblue.com/

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生きることについて

あなたは迫害をしていないか

 うちの近くに慰霊碑があって知った、福田村事件について

 映画にもなってました 

 映画 福田村事件


 関東大震災の起きた直後の千葉県福田村

 100人以上の自警団によって、香川から来た行商の薬売りの集団15人のうち、妊婦、幼児含む9人が殺害されたという事件です

 この事件について、恐らく「左翼の陰謀!」と叫びたい人がいると思うんですよ

 殺された要因の一つが、「讃岐弁が分からない千葉県民が朝鮮人だと思った」という、信じられない話だからです。

 僕もよくわからないので、左翼を叩く愛国心のある、らしい、先生方の元で真面目に学んでみましたが、彼ら自身が洗脳されているなと思いました

 見た訳でもない光景を、見てきたかのように(あの時天皇陛下と誰々がこんな会話をした、等)その時の言いぶりまで真似するのですが、そんなもの見た訳ないのですから、明らかに誰かの意図です
 しかも、あっちもこっちもみんな同じことを言いますからね

 当時子供だった彼らは一様に同じ教育を受け、見てもいないことを鵜呑みにして事実としてしまった
 ということは明白です

  ちなみに、うちには朝鮮人がいました

 大きな家でしたので、下働きとしてうちにいました

 当時朝鮮人がどのような扱いだったのかを調べ、恐らくうちの考え方ならば、他に行くあてがない状況だったのでうちに置いていたのだと思います

 離れにある小さな小屋(と言っても、今の感覚ならそんなに小さくは無い)を与えられ、そこで暮らしていました
 普通に家があるのと同じで、自分たちで自炊したりしながら生活し、うちで薪割りなどの作業をしていました

 僕は、中国人にも友人がおり、中国や韓国の文化は好きなので、特別差別的感情は持っていません

 以前、中国共産党については否定的な話をしていますが、それを教えている国際政治学者の先生に弱者が差別的扱いを受けていることについて批判的な意見を述べたところ、吊るしあげるようにボロクソに罵って来ました

 この手の先生たち、皆さん、安倍元首相の桜を見る会に参加されていた方々で、先に述べた「見た訳ないやんごとなき方々のやり取り」を知っていて、そのような話をする時は陶酔してさめざめと泣いたりします

 ボロクソに罵られたことを受けて、おや、おかしいな、と思いました

 ちなみに、僕は天皇陛下と誰かのやり取りなど見た事ありませんので、なんとも言えません

 今の世は戦国時代に似ています

 戦わせたくてしょうがない人たちもいますが、そうでない人もいます

 福田村事件の映画の中にこんなセリフがありました

 「日本人にも悪い人はいる。」

 どこの人かは関係ない、ということです。

 何国民、とは、誰か?概念上の存在です。

 目の前にいる人間を平気で攻撃する人は、完全に洗脳されています。

 誰かに操られているだけです。

 何も酷いことをしていない相手を、誰が憎むでしょうか。

 また、概念上の存在と共に生きている人は、概念上の存在を信じて名前に騙されます。

 何何だから、大丈夫。

 何何が言うから、正しい。

 こんなに操りやすいチンパンジーがいるでしょうか?

 まあ人間なんてそんなものなんですよ、大半は。

 福田村事件の映画でも、まともな思考の人達はいます。

 ちょっと待てよ、まずは確認しようよ、日本人だったらどうするんだよ!

 そこで、疑われていた香川県民が叫ぶのです。

 「朝鮮人なら殺してもいいのか!」

 これが正義の恐ろしいところなんですよ。いつの間にか人殺しも正義になるのです。

 このような争いに巻き込まれないよう、気をつけねばなりません。

 名前に乗っかって正義の自己陶酔の先には、「あいつ人殺しだ」の現実が待っています。

 まずくなったら何かの影に隠れて、小さくなれば何も問題ない、というわけではありません。

 散々自分がやった分、 後ろ暗くなりコソコソしなくてはなりません。自分が叩かれないように、大袈裟に反対であると誇示しながら。

 最終的には、争いは争わない人達が終わらせます。

 どんなに親から話だけ聞かされても、何もされていないのに偏見だけで人殺しも迫害も出来ない。そんな人達が味方にも敵にも必ずいます。

 僕も日頃から個人を迫害しないので、〇〇人に加担する裏切り者だ!なんて知らない人に攻撃されることがあります。

 恐ろしいことをする日本人もいるのです。

 「中国人を庇ったから、あいつも日本の敵だ!」

 意味がわからないですが、内面的に未熟であるほどそのようにパニック状態に陥ります。

 この手の人達は、敵とした対象を罵れば罵るほど、迫害すれば迫害するほど、愛のある人達だと思うのです。

 自分のことを大事にする人ではなく、自分の敵を攻撃する人が自分を愛する人だという考え方です。

 そんな人達がいるのに、朝鮮人、中国人、と蔑むことは出来ません。


 まあ、やりたい人は頼まれなくてもやりますが、僕はやりません。

 しかし、福田村事件はまさにそのような流言飛語に踊らされる人々が、「お国のため!」とパニックになりながら起こしたような事件です。

 「讃岐弁がわからないから、朝鮮人だと思った。」

 これが無知の恐ろしさです。



 僕は元々、親に愛されない悪の生まれです。

 ですから、どんなに望ましくない人も致し方ない理由があると考え、「何をしていないから、悪者だ!」と簡単に決めつけて迫害はしません。

 そんな雑な生き方でいいなら、バカのまま偉くなれる楽な世の中になりますよ。


 皆さんも、自分は普段から何もされていない誰かを、概念上の何かを、バカにして迫害して、喜んでいないか、今一度振り返り確認してください。

 みんなもやってるから。なんとなくやっちゃった。

 そんな理由で、人を迫害し殺すことの無いように。

思いのほか多くの方が、知りもしない何かをバカにして当たり前のように優越感を感じていますから、みんなもやっていても自分もやっていないか、よく考えてみてください

 気づくことがあれば、いじめはやめることです

 知られなくても直接何かしなくても、人を貶めて喜んでいる人間になっていることには変わりないのですから

 人を貶める時、自分も必ず貶めています

 誰かをバカにして喜ぶことの無いよう














 


僕は無敵なので・・・皆さんは安心して「普通」に生きればよい

 この表現がいい。

 無敵。

 実際、僕は無敵だ。
 有料会員向けの方に「無敵になる」ための話を配信したので、会員の皆さんは見ておいてほしい。

 自分の言いたいことをどう表現すればいいのか、また、自分をどう紹介すればいいのかなど、他人から見た自分はわからないから難しいものだと思う。

 僕は配信している動画のチャンネル名も、自己紹介も、あれもこれもどう名付ければいいのか決めかねている。

 名づけは呪いである。それを殆どの人は知らない。

 自己紹介に書いた。恐らく大丈夫なのだろうと判断したので書いたのだが、僕の生家は藤原四家のひとつを源流とする武家氏族だ。

 以前散々困らせてくれた公家の娘に何か嫌な感覚があるほどの安心感のような、違和感の無さを感じたが、恐らく彼女とは源流に近いどこかでつながりがあるのだろう、と思う。

 僕は公家衆の考えもわからないではないし、武士の精神は勿論わかる。

 「言っても意味がない」と判断できることは言わないのが当然だと思うが、僕も普段は言わずにいることが多い。

 説明する気もなくなるのだ。


 疑問として考え続けたいことは、まだマシだ。


 あなたは、戦争についてどう思う?

 戦争には良い戦争があると思うか?


 殆どの人は、良い戦争などない、戦争は良くない、と答えるだろう。

 しかし、今世間で知られた学者たちの中でも、以前、安倍総理が行った「桜を見る会」に参加した人々はみな日本が行った戦争については「素晴らしい戦争、美しい戦争」と賛辞している。

 「国のために死ぬ」ということが美徳なのだ。

 日本人は家族を守るため、喜んで死にに行く。大東亜戦争の時も若者たちは笑って死んで行った。

 と述べるのは武田邦彦先生。

 彼も、藤井厳喜先生も、みな「天皇陛下」や「大東亜戦争」の話をすると、「この素晴らしい国、日本」のことを思い泣く。

 悪いが、僕は全く理解できない。

 彼らの話を聞き、また様々な著書などを読み、「日本は素晴らしい国だと学んだ」と喜んでいる人たちは沢山いる。

 それも悪いが理解できない。

 そのような人たちは、みな「聞いたことがすべて」なのだ。

 僕は「体験がすべて」なのだ。

 これが、僕が子供の頃から世間に誰一人安心できる人がいないと警戒していた理由だ。


 僕には皆さんが理解できない。

 僕は皆さんと違う生き物のようだ。

 なぜならば、先に述べた先生方も、そして皆さんも、自分が体験していないことであっても言葉で説明されれば体験したことと同等の事実に認識できている。

 それが権威の述べたことならば、間違いなく「説明は自分の体験」になってしまう。

 僕はそうならない。体験は体験、他人から聞いた話は聞いただけにすぎない。

 それが事実だ。事実のままにしか、僕は認識できない。

 そしてそれでいいと思っているし、申し訳ないが、認知能力が高いと殆どの人のように「誰かの説明」を「実際に起きていたこと」とは認識できないのだ。

 体験と説明の区別がつかない人、起きたことと空想の区別がつかない人が殆どなのだと知った。

 信じられないが、そうなのだ。

 学力的にはとても優れている先生方が、自分が見たわけでもない「天皇陛下と誰かのやり取り」について目の前で見ていたかのように話し、涙する。

 間違いなく自分が見たことのように話しながら、更にその事実について感想を述べたり意見したりもする。

 信じられないが、これほど学のある、僕より遥かに経験もあり実力もある人たちが、ここまで空想を信じて生きているほど、内面的に純粋な子供なのだなと驚く。

 神様なんて、実在している人間の中にいるわけがない。

 そんなこともわからない。

 可哀想だが、聞いた話と体験の区別がつかないらしい。

 科学の力で成り立っている社会に生きながら、この日本は神様が作ったと信じている。そんな矛盾はないが、とにかく自分が思っていることが矛盾しているとよくわからないようなのだ。

 それは神経症の人も同じことだ。

 自分が特別なのかどうなのか、30歳になっても40歳になっても自覚できない。

 特別ならば今までの人生が特別なものとなっているだろうに、とにかく自分は特別だと思い込んでほかの人には起きるわけがない夢のようなことが起きると信じている。

 夢を見ながらでも生きていける、と思っているのだろうが、脳を空想に使っているということは、現実に目的を持って計画的に進んでいけば手に入ったものは、すべて諦めて「変わりに夢み続けているのだ」ということさえ、自覚できない。

 僕自身はやたら知能が高くていいことなど何もないのだが、それにしても気の毒なことだと思ってしまう。

 家族を守るために死ねる、と誇りに思い、笑顔で戦争に行き死んで行った人たち。

 そしてその「英霊」のために戦争で守ってもらった現在の若者たちも死んで行かねばならないという話らしい。

 命を捨てることこそ、家族のため。

 この思想を受け入れられる人は、子供を死なせることが悲しくないのだろう。


 なんでこんな考えを受け入れているのか、当然理由はある。

 欲だ。

 国のため、という名目があれば、優秀になった人たちは地位や名誉、そして金がもらえる。

 だからあまり深く考えないという方が、正しいのだろう。

 とにかく定番の「理想論」を理由にしていればいいのだ。

 恐らく本人たちも、言っていることと内から湧いているものが違うと自覚できなくなっているのだろう。

 可哀想に。

 それまで、偉くなったことがなかったのだろう。

 ほめてもらえる!褒美をもらえる!

 見たこともない権威に認められ、見たこともない豪華なものを手に入れる。体験する。

 「これが正しいと信じたら、自分に都合がいい。」

 こうなると、もう嘘も関係なく本当にしてもらえるのだ。


 何が可哀想って、その後どうなるのかを彼らは全く知らないのだ。


 死に際にわかる。


 僕は、古来より続く教えに従い、つい最近西洋人が考えだしたものは手に入れずとも、本当にこの国で続いていた術の方を身に着けた。

 昔はあった。今はみな「ない」と思い込んでいるだけだ。

 ないと思えばなくなる。誰も存在を残さないから。


 僕はお金を出して教えてもらえたことが少ないから、結局過去から続く家の教えなどと、自分が見て体験してわかること程度しかわからない。

 その程度しかわからない僕でもわかることがわからないなんて、そっちの方が気の毒に思える。


 呪術は、見えないように使い、見えないものを動かし、流れを変えていくものだ。


 中国共産党を異様に敵視している人たちは、みな自分が似たような中身なのに気づいていない。

 共産党教育のやり方を知り、「こんなものは日本と同じじゃないか」と思った。


 そして、彼らが訴える内容から、「大丈夫だ」と僕は判断した。

 殆どの人はそんな判断しない。

 でも説明したところで理解はできないだろう。

 だから戦時中と同じように、大衆は大衆で、また頑張って争っていればいい。

 今既に、戦時中のように争っている。

 内部で争いが起きている。

 見ず知らずの人にいきなり暴言、侮辱。

 言われたとおりに我慢しながら生きる。

 戦争に行けと言われれば、「怒られたくないから」戦争に行く。

 よくわからなくても、不満でも、とにかく我慢して言われたとおりにする。

 昔から何も変わっていないから、安心していい。

 元々、言語をそんなに使いこなしていなかったのに、一度言語を失わせたのだから、しょうがない。

 言語でコミュニケーションなんて取れるわけがない。

 情報の伝達だけできればいいという教育をしたのは国なのだから、これでいいのだ。

 もう一度、日本国民は戦争に向かえるだろう。

 今も我慢しても「良い子」になる。それが今も彼らの安心だ。

 世間で良いとされることができているか否か、そのくらいしか心配がない。

 良いことをしていれば、自分にはそれに見合った何かがやってくると信じている。


 やりたいことも、目的もない。

 人生のおしまいを死に設定することなく、終わりが来るとも考えずに生きている。


 軽い人生だ。

 本人の中で、軽い扱いなのだ。


 羨ましいことなのだ。そんなに気軽に生きられたら、葛藤などしなくてもいいのに。


 次の代のことも考えることなく、諦めることなくいつまでも夢を見られる。

 我慢さえしていれば。


 いつまでも、いくつになっても、お国のために働き、立派なことを言う。

 老人たちを見てみるがいい。

 まるで子供同士の競争だ。

 彼らは同年代なのに、仲良くないどころか互いにいがみ合って相手を罵倒している。

 自分は正しい、あいつらは間違っている。

 そんなことを、老人たちが必死になってやっている。



 僕は関係ない。僕は無敵だから。


 それにしても、人間って案外かわいい生き物なのだと思わないか?

 神様がいる、とおじいちゃんになっても信じていて、この国は神様がやってきて作ったと信じ、更にはそれを信じているおじいちゃんたちは社会に出ても、子供たちに向かって教えるのだ。

 かわいいおじいちゃんたちだと思う。

 僕の方がかわいくない。

 日本で言うところの神様が何なのか、知っているから。



 ダメだ。

 とても短くなど書けない。


 全部説明するためには、もっともっとかかる。


 間違いないことは、とにかく今の社会ではみな「金のため」に生きているということだ。

 
 本当にすごいものだ。

 僕は金より愛がほしい派なので気が知れないが、欲しがるものは本当にそれぞれ違うものだ。



















 

幸せになりたい人への質問

 「幸せになりたい」と思っている人への質問です。

 「幸せ」とはなんですか?

 自分が口にするのだから、自分が思っているのだから、「幸せ」というものが何かを知っているでしょう。

 あなたが思う「幸せ」とはなんですか?


 愛されたい、という人にも質問です。

 「愛」とはなんですか?


 僕は自分が生まれた家で愛されたとも幸せだとも思いませんでした。

 愛も幸せも知らないので、それを知るために生きることにしました。


 沢山考えて、行動して、何度も何度も失敗したり確認したりを繰り返し、愛や幸せが何かを自覚できるようになるまでは長い年月がかかりました。

 「これが幸せなのだ」と自覚して確信を持てる時、既に幸せになっています。

 「これが愛なのだ」と自覚して実感している時、既に愛されています。


 つまり、幸せや愛を知っている人は、もうそれらを得ている人なのです。


 人間は、体験もない何かを知ることはできません。

 愛も幸せも目に見えない感覚の話ですから、それらを確認するのは本人でしかありません。

 愛や幸せはそれぞれが「知っている」と思っていることでしょう。

 しかし、それが間違っているとしても本人に気づく力がないならば、間違ったものを愛や幸せだと思って生きていくしかありません。


 もう一度、問います。

 幸せとは、なんですか。

 愛とは、なんですか。


 それが何か、知っていて求めていますか?


 知らないのに知った気になっている人は、自分一人で幸せになり愛されようとしています。

 自分一人で幸せになろう、愛されようとした場合はどうなるでしょうか?


 誰とも分かち合えない、自分だけが知っている願望を叶えることが幸せ。

 自分で自分が愛されていると自己陶酔して、一人よがりに感激する愛。


 それが、自分だけの世界を生きる人の幸せや愛です。



 そのような幸せや愛を求めて生きる人が、誰かと共に幸せになり愛し合う人たちを妬むのですから、可笑しなことです。



 幸せになりたい、愛されたい。


 その内容がどうであるのか、幸せが何か、愛が何か、自分が他人に「これである」と責任を持って教えられるくらいになってから、口に出して他人に「幸せになりたい」「愛が欲しい」と言うものです。

 なんだかわからない漠然としたものを言葉に出され、更にその漠然としたものを明確に「形にして叶えよ」と求められても、生きた人間にはそんなこと不可能ですから。


 自分が口にしている言葉の内容が何であるか、自分自身でよく知っておくことです。

 なんとなく、それっぽく生きたところで、現実の世界でしっかりと噛み合って実現することなどないのですから。














知能が高い人ほど馬鹿にされると言うお話


 有料会員向け動画より

 ギフテッドと呼ばれる人、特に知能が高く生まれついた残念な人達の残念な人生について

 どう対処して何を諦めればいいのかなどについて話した動画から冒頭の15分程度をお送りします

 僕と同じように、殆どの人ははぐれギフテッドとして生き辛い人生を送っていることと思います

 自分の知能が人一倍高いなんて、知らないかもう忘れているかという人が殆どかもしれません

 僕もそうでしたから

 自分だけおかしいという扱いをされるのが天才児の常ですからね

 本当に、最初から生き地獄で嫌になりますね

 そんな人たちのために、はぐれギフテッド向けに話をしたいなと最近思いました

 僕も子供の頃からなのですっかり慣れていますが、どうしても「手加減して話す」という癖がついています
 考えている範囲が違うから、何を言っても全部違う意味に聞こえてしまうということは、散々体験して知っています

 諦めてくだらない話、趣味の話など、浅い話だけしていれば楽しく会話していけますよ

 それはそれで楽しい時間ではあります

 ただ、真剣に考えていることを話したい、意見交換したい、など、誰かと会話したい時は相手がいなくて困りますよね

 僕たちは生まれた時点で最低な人生が約束されているようなものですから、孤独との戦いを乗り越えながら、たった一人で誰にも思うことが言えなくても「それでも生きていて嬉しい」と思える人生になるように、与えられた力を使って頑張っていくしかないです

 僕も小学生の頃に先生にも話が通じないと思っていたので、最初に諦めてしまっていました

 自分の考えていることを他人に話して、更には理解してもらおうなんて考えないのが一番です

 どうせ何を言っても意味なんて理解されないですから

 頑張るだけ無駄

 なので、自分で自分の話を聞き、ブッダやアインシュタインのような人たちを友達にして会話をし、「仲間が大勢いる多数派のみんな」を遠目に見ながら生きていくしかないです

 僕たちはマイノリティです

 がっかりなことに人類中2%です

 それは間違いないことで、僕たちの場合は知能が高いので逆に知らないものを怖いと思わず知ろうとしますが、大抵の人は「怖いので悪いものにして安心する」のです

 自分たちと違う発想でも、それはそれで違いとして受け入れていくしかないです

 そうなものはそうなのですから

 この孤独に堪え続けていけば、いつか「自分の言っている意味が分かる人」に出会えます

 その時のために、自分の存在に関心を持ってくれる人に出会った時のために、普段から「自分の意見を持てるよう、あらゆることについて考えるのです

 普段から考えて自分なりの答えを出しておくこと

 そうしないと「あなたが知りたい」という人に出会っても、「そんなこと誰でも知ってる普通のことでしょ」と思われるような真似事の意見を言わねばならなくなりますよ

 世間的に良いとされることを羅列していれば「自分を知られたくないんだ」とバレてしまいますよ

 自分を知ってもらいたいならば、勿論「自分の意見」を常に考えておくことです

 ネタを生み出すのではありません

 自分自身の真実を常に突きつめて、自分をよく知っておくのです


 ちなみに、僕が今わかっている限りでは、ギフテッドと呼ばれる人たちは(知能指数が高いだけの人ではない)恐らく感覚機能がものすごく高いようです

 それも、各自バラバラに違う特性を持っていて、誰がどうとか、カテゴリで分けるとか、そんな真似ができないほど「何か」なのです

 最近、「色々な虫の能力」について知り、これだ、と思いました

 わかる人は「気」とか「波動」とか呼んでいるようですが、そんな感じのものとか、感覚でわかることがありますね

 全員同じではないんですよ

 本当に動物の違いのように

 何かを目指し、先に知った何かを真似している人はどんどん持って生まれたものを失っていくのです

















 

加藤諦三先生と僕は正反対です

 加藤諦三先生は、僕が精神分析学を教わった先生です。

 一緒にラジオに出演させていただいていたこともあり、殆どの方は僕と彼が同じ見解を持って生きていると思うようですが、違います。

 彼の最新刊が出ました。読んで確信しました。

 有料会員向けには以前既に話していますが、予想通りの展開になってきました。

 親子三代を抜けることなく、「自分はこんなに頑張った」の点の存在で終わるでしょう。

 なかなかこの三代を抜けるのは簡単ではないようですね。

 有料会員向けには動画で配信もしますが、僕は彼とは正反対です。


 例えば、こんな違いです。

 「人は誠実に生きるべきだ」

 この言葉を聞いて、百人が百人同意します。

 正しいかどうかで言えば、それが正しいと思うからです。

 しかし、正しいと思うかどうかと、自分自身がそれが正しいと思うかどうかは違うのです。

 本当に本音で「人は誠実に生きるべきだ」と思っている人は、その言葉を口にする時に既に体験した過去を思い出し幸せな気分をよみがえらせます。

 過去にあった嬉しい体験などを思い出しながら、その幸せな感覚で言葉にします。

 「やっぱり、人は誠実に生きるべきだよね。」

 込められた感情が幸福なものなので、とても幸せそうな様子になります。

 一方、正反対なのに同じ言葉を口にする場合があります。

 過去に許せない人がいて、その恨みが晴れていない人です。

 自分はちゃんと誠実に尽くしたのに、相手が誠実にしてくれなかった!

 そのような恨みを抱えた人が言います。

 「やっぱり、人は誠実に生きるべきだよね!」

 この言葉には他人に同意を求める憎しみが込められています。

 同じ言葉を言いますが、内容は全く違います。

 本音でそう思えているのは、前者のみです。後者の本音は違います。

 「損した!悔しい!許せない!」

 要は、憎しみです。


 「人は誠実であるべきだ」

 これを他人に強要するのがべきの暴君です。

 「自分はちゃんとやっているのに、あいつらがちゃんとしない!」

 自分も我慢してやったのだから、皆も我慢しろ!

 傲慢であり、我儘です。内容は関係ありません。

 それが社会的に望ましいことであれば、他人を貶めても構わないと思っているのが「社会的理想教」の人々です。

 社会的に良くないことはやらないのが当然だ!と言う。

 望ましくないことなんだから、やめる方がいいに決まっている!

 この考え方は、自分一人で社会に生きているつもりの人が思うことです。

 バラバラに存在して、それぞれが「最高の人間」になるために生きているつもりなのです。


 共同体を生きている人は違います。

 まず「社会的に良いことは確実にやるべきこと」と思っていません。

 人間は良くないことをしたがります。人間だからです。

 望ましくないことはやめた方がいいのではなく「望ましくないとわかっているからやりたくなるもの」です。

 やりたいことをやるように、やめたくなったらやめます。

 「良くないことだからやめる」

 これは、良い人だと思われたいという自己執着です。

 そのあたりが理解できないと、正否が逆転した世界に行って自由になれないのです。


 僕は、体験があって後から言葉を知り、気づいた人間です。

 加藤諦三先生は、知識が先にあり、後から知識に基づいて体験を得たつもりになった人です。

 一緒にいたのでそれはわかっています。

 知識を先に得過ぎてしまうと、所謂「勝ち組負け組」のような差別を自分の中に作ってしまい、自分がなんとしてでも「勝ち組」になろうとしてしまうのです。

 先に優劣の区別を知ってしまうことで、自由を失います。

 知らない方がいいこともあるのです。


 彼は、85歳になるお爺ちゃんです。

 本人は若い頃と同じようにこうして本も書けている、と述べていますが、実際には思うよりできていません。

 できていないというのは本人の能力の話ではありません。

 一緒にいて、耳が遠くなりよく聞こえないまま、相手が述べたことを誤解して返答をしていると気づいたことがありました。

 その時、もう御年なのだなと寂しく思ったものです。

 もっとお若い頃にお会いしたかったものだと思いましたが、学んだことを次の代のために活かさねばと思いました。

 老人は、よく間違ったことを言います。

 仕方のないことです。

 ある大手飲食チェーン店の接客マニュアルには、

 「老人が間違っていても、決して間違いを指摘したり間違いとして扱わない」

 というものがあります。

 理由は、

 「本人はできているつもりで話しているから」


 幼い頃と同じです。できているつもり。

 実際にはできていないのに、子供ができたつもりですっかり威張っている姿を可愛いとおもうものです。幼児ですから。

 聞けば聞くだけなんでも教えてくれるのだから、聞いていて面白いと思えます。


 同じように、老人になるということは衰えるということです。

 彼はいつまでも若さを保ち同じことをしたいようですが、言葉では否定していて既にかなり矛盾してきています。

 みなわかっているものです。

 彼の周りにいても、彼にみな気を使っているのはよくわかりました。

 本人は「できているつもり」でいる時も、みな色々思うところはあります。

 それでも、誰も否定などしないだけです。


 わかっていて、みな黙っているのだということに彼は恐らく気づいていないと思います。




 有料会員の皆さん、予想は当たっていました。

 遂に、加藤政之助の名が出てきました。

 埼玉で学校の先生をやっていた、後に実業家そして政治家になった、彼の祖父です。


 やはりここに落ち着きますね。

 今まで一切出さなかっ名を、今になって連呼し始めました。

 道理なんですよ。こうなるのです。

 最後の最後まで、過去に向かって進んでいくその先が心配ですが、致し方なしです。


 最後の最後まで、「立派な人間」になろうとしているのだから、気の毒に思います。


 間違いを認める「ちゃんとできる人」

 過去を反省して受け入れている「成熟した大人」


 字面で先に知り過ぎてしまったのです。

 間違った方に進むので、この方法はやってはいけないんです。


 体験が先になくては駄目なんです。


 しかし、相変わらず引用している学者たちの話は正しいものです。


 本当に心理的に安心を得るために、最も大切なことは「人と親しくなること」。

 アメリカの心理学者シーベリーは、「仲間と一緒に和気あいあいと、朗らかに食事をすることで大抵の悩みは解決する」と言います。

 食事、一番大事なものです。本当にその通りです。


 僕も心理的に健康な家族に混ざり食事をし続け、前向きになることができました。

 話は聞いてもらえないです。愚痴や悪口は絶対に言わないのが健全な人々なので、不幸話は聞いてもらえないです。

 話がいつの間にか笑いに変わってしまうので、「酷い目に遭っている僕」を中心にした世界になりません。

 しかし、それでいいのです。

 自分のことは自分で解決するしかないのです。

 大切なことは、今ここに仲間がいて、食事を楽しくしているということです。


 「ただ仲良く楽しく、和気あいあいと食事する仲間」がなかなか見つかるものではないと知っているので、僕は意図的にそれを生み出すように努力してきました。

 教室で、どれだけ皆と一緒に色んなものを食べてきたか。

 あれでいいのです。

 わからない人にはわからないでしょうけれど、本当にただそれだけでいいのです。

 恨み憎しみをなんとかするために、憎い人を中心に作った人生にはたどり着くことができないゴールと、辛い道のりしかありません。

 「復讐を諦めること」

 立派にならずに死んでもいい、ダメな奴でもいい、そんなことは大事なことでもなんでもないと気づけるかどうか。

 字面でこうして読んでしまうと、「自分はできてます!」「もう気づいた!」とみな言いたがります。

 しかし、本当にわかっているのかどうかはその人の表情を見れば明らかです。

 幸せな人って、わかりますよ。


 笑顔が違います。

 デフォルトが笑顔です。


 仕事をこなすように「きちんとやれた人」から幸せになるわけではありません。

 「これでもう幸せになれてますか?」と聞いて確認してもらうものではありません。


 しかし、そのくらい深刻に病んでいる人たちが多いのです。


 学術的に証明されたもの、権威が正しいと言うこと、そんなことに縋りつかないと生きていけないカルト教団信者たちです。


 母親より、社会的に証明された科学的見解が大事。

 そんな人が本当にものすごく多くなりました。

 祖母のしてくれることは、ただの優しさなので科学的根拠がないから意味がない、と思うのです。

 今、そんなこと私は思いません、と思っている人が、実は思っているのです。


 裏を返せば、科学的根拠があるかないか、社会的に何が正しいと言われているかどうか、海外では今どうなのかなど、それらを確認して「正しい」とわかったことしかできない人は、権威主義の信者たちなのです。

 宗教二世の人たちを、奇異の目で見ている人がいると思いますが、彼らの方が余程現実に近くまともなのではないかと僕は思っています。

 おかしいものをおかしいと自覚できる人は、そんなにおかしな人ではないです。

 当たり前のようにおかしなことを当然だと思っている人の方が、おかしいでしょう。

 そしてそれが「普通」になっている社会もおかしいですね。


 さて、僕はこれから「遊ぶ」「皆で食べる」などの体験をする教育をしていきます。


 僕自身がタバコをやめたので、やっと精油関係のこともやれます。

 完全に喫煙をやめるまでは、香りの関係のことはやらないと決めていましたので、やっとできるようになりました。

 今後は「理屈じゃない世界」を中心にやっていきます。

 理屈だけで押し通す世界の人たちは、人の優しさや思いやりを無下にするだけではなく、社会的に肩書を持たない祖父母や母親の存在価値を下げてしまいます。

 戦わずして勝つこと。

 僕は僕自身の一族の教えの通り、

 「最も強い武士は、死ぬまで刀を抜かない」

 という姿勢を守って今後も生きていきたいと思います。

















 









 

 
Twitter プロフィール
心理療法研究家、カウンセラー。精神分析、非言語療法、歴史、武家教育、仏教etc...古代氏族当主。歴史の流れと合わせて日本人の心理的変化を観察している。IQ150。レジリエンスパーソナリティ。精神分析学を加藤諦三より学ぶ。テレフォン人生相談ゲスト回答者。相談や講座を行っている。
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