Refresher's Blog

人間性心理・教育を研究する最上雄基のブログ。モラハラ、毒親、アダルトチルドレン、社会や歴史を含め広い視野で原因を知っていく。ホームページ Refresherぷらす https://www.refresherblue.com/

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人生論

あなたの家の常識

 誰もが自分の家で常識とされている何かを身に着けています。

 それは考え方かもしれないし、行動かもしれません。

 とりあえず、人間は意識の上では言葉だけ自覚しているものですが、言葉でハッキリ言われていたものとして、何があるでしょうか?

 うちの場合は次のようなものでした。


 ・金持ちにろくな人間はいない。まともなことをしていたら自分だけやたら金を持っていない。

 ・貴族はろくなものではない。自分たちが特別な人間だと思って人様に感謝して生きていない。

 ・一番偉いのはお百姓さん。すごいことをやる前に、まず人間が生きるために必要なものがある。人間が生存していくためのベースに必要な人たちが一番重要な存在。

 ・何ができようが、生存に必要なものを人様に用意してもらっているならば、偉くもすごくもない。


 特に、金持ち、貴族、はうちでは忌み嫌われる存在でした。

 卑怯なことをして楽しながら、生きるに必要な存在を蔑ろにしているイメージしかないです。


 僕はこの考え方を常識として、物事を見てきました。

 間違ってはいないと思うので、再考の上選択しています。家族の中で僕だけがこの考え方を受け継いだので、僕だけが家族から仲間外れになりました。

 しかし元々うちの一族の常識なので、僕は父と母が作った「ニュー家族」からは外されても、一族としては仲間のまま残ります。


 根幹となる常識部分が違うと、相容れない生き方をするため集団として成り立たなくなります。


 皆さんの家はどうでしょうか?

 自分の家の常識は、人間として生きるに困らないものでしょうか?

 もし自分の人生において、これでは困るなあと思う部分、納得がいかない部分、自分を誇りに思えない部分があるならば、修正していきましょう。


 自分に誇りを持ち生きて行ける常識を、自分自身で考え選択して行けば自然と似たような考え方の人たちと仲間になります。

 たまたまそこにいた集団に無理やり所属し続けるために、無理やり誇りを捨てて生きる必要はないのです。

 特に家族は、離れたところで家族では無くなるわけではないので気にすることはありません。

 いずれ親も死にますから、早いうちから「自分が生きるための常識」をこさえて生きて行くと誇りを持ちながら未来を迎えることができるでしょう。








 










「富山は神」~都会のエリートに憧れた人々~

 ある富山青年の動画

 都会すごい、学歴エリートすごい、富裕層すごい

 憧れと嫉妬のある人たちへ

 地方の進学校から東大に入った富山青年が体験と感想を綴る

 今回はとりあえず、これを見てから聞いて欲しい





 更に二本

 東大にガチで行ける超進学校







 というわけです

 この富山の青年、すごいですね

 どうもありがとう

 お陰で参考にさせていただけます



 で、皆さんはこれを見て、どう思いましたか?

 僕はまずそこが知りたい


 多くの人が、東大すげーな、自分はこんな風になれない、金持ちはいいよな、などの憧れ、嫉妬、劣等感を抱えているようですが


 ということは、つまりこのような道を進んで、勝ちたいわけですよね?


 僕はそう理解して、頑張れ、と素直に応援しています


 僕は最初からこのような道とは無縁の人間です


 最後の「富山は神」がいいですよね

 僕の祖母も富山の人です

 富山は仏を育ててくれた素晴らしい土地です


 で、皆さんはなぜこのような競争をしているのでしょうか


 関係ないならば張り合わないでしょう


 ちなみに、僕の母は、田舎者らしく都会に憧れ、かと言って東京に来ただけでは何かすごいことが起きるわけでもなく、しかし田舎に大人しく帰ることもできず

 死ぬまで見栄を張って東京にしがみつき、まともな墓にも入れてもらえなかったという

 一族きっての恥さらしです


 そして僕は、一族を裏切らず母を裏切って一族の源流の流れのままに生きている人間です


 もう僕はかつての農民になったのだ、と自覚したのが小学生の頃ですが

 子供の頃から灘など進学校を目指して、塾に入り猛勉強している子はいました

 僕はたまたま勉強ができたので、学校では彼らと張り合える成績であり、確かに一位争いもしました

 でも彼らには学校などどうでもいいのです

 最終的に東大に入るなどの目的があり、他はどうでもいいのです

 親もどうでもいいと思っていて、進学塾には熱心です

 義務教育の学校など、本当にどうでもいい人たちがいました


 皆が進学塾に行っている

 そんな中、成績こそ同レベルでも僕だけが貧しく塾にも通えませんでした


 しかし、少なくとも僕の家では常識であったことを彼らは守ってはいませんでした

 負けたくないと思う気持ちもありましたが、なぜ彼らは当たり前のことを守らなくても許されるのか、と疑問に思っていました

 「勉強さえできればなんでもいいのか」

 という疑問です

 彼らは誰なのか?と母に聞きました

 「農民町人の子だ」

 と教わりました

 自分が元々どこから生まれた一族のどのような流れに生れた存在なのか、ということは、この世に生まれたからには親また祖父母から教わるものだと思います

 生まれてきただけでは、わからないですからね

 それは僕が故郷金沢にいた幼少期から教わってきたことです

 六歳までの「家庭教育」で一族の人間になれるよう教育されていきます

 僕の考え方のベースになっています

 「どこの家の人間がわかってない大人」にならないようにしていきます

 皆さんがここ近年だけの世界観で考えている「偉い人」「金持ち」「エリート」とはなんら関わりない別の世界の話です

 嫉妬される謂れもありません

 存在すら消えてしまった人間たちの話ですから


 我々一族は彼らとは違うので、ただご先祖様に感謝し、共に生きてきたお百姓さんたちに感謝し、当たり前のことを続けていけばいいのだ、と教わってきました

 何にもならなくていいから、うちの一族として生まれたからにはただ跡を継いでいけ

 という家です

 母は「今は昔と社会が違うんだから」と反抗し、「こんな家なんて」とバカにしていました

 皆と同じことをやりたくて、仕事も娯楽も普通に「多数派」と同じように楽しんで生きていました

 そして東京に来て、「東京にいる」という看板に守られようとしていた人です

 その看板を掲げ続けるために、毎日毎日同じ日々を過ごし、「東京でちゃんとやれてる」ということだけ見せ続けるために、祖母を放置し、家を放置し、そのうち行政から御しかりを受け、それを東京では隠し続け、「皆と同じ」であるふりをして死んで行きました

 そこからが、僕の後始末の番です


 先の動画のあれこれとは、無縁の人間です

 競争したい人たちは競り合っていますが、関係ないので嫉妬心も何もありません


 「自由に選べる人たちはいいなあ」と思うだけです


 でも、僕は今ほんとうに幸せなので、劣等感もありません

 自分のことを知り、自分の一族を知り、生まれてきて良かった、生きていて楽しい、と思えるだけで十分です


 その程度のものなら、僕みたいな人間でも手に入れられます

 だから思うのです

 「大変だなあ、みんなは」と


 もし、今の動画の話の世界が全てになっている人がいるとしたら、その枠から百は外の枠から今を見ていると思って話を聞いて欲しいのです

 この流れがどこから始まったのか

 それで、百五十年前の話をします


 自分は誰なのか

 どこの誰が?という点を、「どこの誰でもない」から始めたい人が殆どです

 どこの誰かを隠す、またはどこの誰かで優劣をつけ、差別からスタートする


 僕にはその概念がないです


 新しく作った概念ですから


 農民町人、と言うとそれだけで「差別だ」と怒る人がいます

 どこの誰かが明確になれば差別だと思う人が、差別的なのです


 例えば動画の青年

 彼が乗り越えた困難は、都会にいた富裕層のそれとは全く違います

 僕は富山は多少なりとも理解できますが、あの環境下から東大に入った青年です


 生まれ育ちは関係ない!と言い出したら、「東大に入ったら全員東大生だから同じ」ということになります

 その場に来るためにどれだけ苦労したのか、その違いが同じ立場にあってもあるのだと理解するのは僕の勤めです

 それを区別し、違いがある中での公平な判断をするのが、うちの「お家芸」です

 差別的な人間が上に立っていたら、氏族しか名乗らなかった時代から一族が続いていません

 真に公平な判断をするために、何を身に着けていくべきなのか

 その教育がうちにはまだ残っていました

 「もうこんなの意味ない」

 と僕も子供の頃は思いましたが、「それでもいい」と思ったので自分に教育して生きてきました

 それだけが、僕が生まれた時から与えられた「自分だけもの」だからです


 社会で与えられるものなんて、誰でもいいんですよ

 自分だからもらえたものではありません

 「自分だからもらえたもの」は家の中にしかないので、僕はそれを大事にして生きてきました


 社会の競争など、僕の知ったことではありません

 僕がこの社会を作ったわけではありませんから


 そして、動画にあるような学生たち、実際にいます

 僕の友人にもいました

 お付き合いした人にもいました


 僕が彼のように一言言うならば

 「女子校上がりのお嬢様はクソ」

 ということでしょうか

 公立校に通う共学にいた女子より、遥かにオッサンくさい

 ヤクザっぽい、兄貴っぽい

 でも教育で身に着けてはいるから、綺麗に見せれば「そこだけ」はものすごくお上品で素敵に見える

 が、並の女子でも考えないくらい、裏表があってあくどい

 これは、女子校内部を知っている女子たちにも聞いた話です

 「男の目がないと、女は男より酷い」

 とある友人は言いました

 話も聞きました

 幻滅を通り越して、恐怖です

 そしてそれに騙される、友人男子高生

 「女子校の女の子たちは違うんだよ!お前ら共学の女子しか見てないから、本当にかわいい女の子たちを知らないんだよ!共学の女子なんて女子校の女子に比べたら女の子らしさゼロ!女子校の女の子たちは、可愛いものしか食べないんだぞ!」

 男子校に入り、女子校の子たちと合コンしまくりだった友人のセリフです

 「イチゴとか生クリームが乗ってる、可愛いものしか食べないんだぞ!」

 大丈夫かこいつ、完全におかしくなった、と思ったものです


 彼は洗脳されていました

 女子校の女子は、寧ろ女子だけなら何をしでかしているかわかりませんそしてかつ丼とか牛丼も食います

 そのくらい頭がおかしくなっているのに、勉強はめちゃくちゃできて、一流大学と言えるところに行きました

 気色悪いくらいに計算が速いので、人間計算機と呼ばれていました

 彼のような人間が珍しくもない、うじゃうじゃいるのが東大など皆さんの憧れの場所です


 IQは高くなっているけれど、人間がバカになった

 この表現で区別してもらえるでしょうか

 なかなか難しいです

 苫米地博士もこの言葉やめた方がいいと思い始めました


 勉強しか考えない人たちに、その単語は恐らくひとつの限定された意味にしか捉えられないです

 他の単語にしなくては区別がつかないです


 なので「賢者」にしましょう


 勉強ができる、では、性格は悪いかもしれないイメージがあります

 賢者ならば、なんとなく落ち着いていて、精神的にも優れた人だというイメージになるともいます

 この区別にしましょうか


 ちなみに、農民町人の子たちは、勉強ができると外で褒められ認められ優遇されていくので、彼らは頑張って褒められるように生きていていいのだと教わりました

 うちはそんな必要はなく、生まれた時からやることは決まっていて、彼らのように出世の道を進まなくていいのだから、なんでも欲しがるな、羨むな

 という話でした


 代々代々、何百年、千年と守っているものがあるから、それを守るべくして生まれてきたのがうちの人間です

 社会でいい目になどひとつも会えない、不遇な生まれです

 皆さんは自分がエリートになれば、すごいものが手に入るようですが、僕はそんなもの手に入れている余裕がありません

 そんなことをしていたら、守るべきものを守る力を養えませんから


 うちとは全く関係ないので、僕がやるべきことでも本来はないと思いますが

 とりあえず迷子になっている人がいたら、自分のおうちを教えてあげた方がいいのだろうと思っています

 動画の彼のように、自分が富山県民であると自覚しているならばいいのですが

 故郷より東京最高になる人が多数になり、そのために都会のエリートや富裕層が押し上げられていく仕組みです

 少し考えて欲しいのです

 自分たちが憧れて追い求め、また賛辞するから「いいもの」になったのです

 自分たちが彼らを支えているのに、それが手に入らないと嫉妬

 自作自演です


 それから、一本目の動画の中に富裕層で外国の経験が沢山ある人が、「これからは経験重視」と言っているシーンがありましたね

 これに対して「そうだそうだ」と関係ないのに自分関係あると思って賛同する人がいます

 関係ないです

 富裕層より学歴エリートは現在優遇されています

 彼らの支配下です

 金持ちで経験もあるのに勝てないものがあり、自分たちが不自由だから「経験重視!」と叫ぶだけで、最初から底辺の庶民は眼中にありません

 自分たちも同じものを目指しているから、同じ基準で生きているから、「仲間だ」と思っているのがそもそも間違いです

 最初から「田舎者と貧乏人」は枠の中に入れてないです

 金持ちと金持ちの争いでしかありません

 そしてそこに必死でエリートになって入って、優越し続けているのが現代の寵児と呼ばれる人々です

 学歴がないとダメと言っているか、金がないとダメと言っているか

 どちらにしろ、どちらか持っている必要があります

 そして学歴も金がなければ部分的に持っているだけにしかならず、競争に参加して勝ち抜くことはできません


 しかし彼らのように、我慢に我慢を重ね、牢獄のような環境で育ってきた子供たちは大人になって人に優しくなれるわけがないです

 一般庶民は、自分たちができないことをやり、楽しめないものを楽しんでいるのです

 「自分たちが偉くなったら、好きにする」


 さあ、親子逆転の仕組みが発動しますよ


 散々我慢してきたんだから、もう好きにするぞ!

 これが、成長できなかった人です


 「散々自由にしてきた庶民たち」は、これから「我慢してきたエリート」に支配されて生きて行くとしても、もう好き放題したから当然のことなのだ

 と思えるでしょうね

 庶民からすれば「好き放題になんてできないよ!」と思えるでしょう

 でも、子供にとって当たり前の遊びや、青春時代の体験がない彼らにとっては、庶民は散々自由に好き勝手してきた人たちなのです

 そして、「大人になったら従順に従っていくのみ」なのです


 まあ

 好きにすればいいんじゃないだろうか

 と思っています


 僕は一人からもう一度始めました

 託された教えだけを持って、生き始めて今は幸せです

 家族仲良く、団結して生きている

 ここが全ての始まりでしたから


 人を妬んで自分も手に入れようと思えるほど、元々何も持っていなかったです

 やる前からわかっている勝負に挑む気は起きません


 最終的に頑張っても手に入らないものが、歴史ある家柄

 だからそれらをはく奪し、勝ち組だけにそれを残した


 神様を利用した者勝ち

 勝てば官軍です


 多くの人が、彼らのような人生に憧れています

 彼らの持ち物を手に入れるということは、その苦労を全て引き受けるということです


 どの苦労を選ぶかも自分で決められますが、それは得るものを決めた時に全て決まります


 僕は贅沢は言わないです


 偉い人の立場になっても苦労はあります

 他の人ができることができないなど、生まれた時から当然です


 僕は今はその不自由がなく、自由にさせてもらえました


 漫画を読んだり、アニメを見たり、ゲームもやりました

 娯楽だけでなく、友達と自分たちで考えた遊びをやったり、デートしたり、本当に楽しかったです


 皇室の人々のように、生まれた時から義務付けられて本当に自由が無い人とは違います

 僕の意思ひとつでできることは、「できないこと」とは言いません

 なので、色々やれました


 庶民で良かったです

 生まれた時から義務がある人たちと同じような家に生れなくて良かったです


 子供の頃に我慢して、大人になったら好き放題

 実際には、その好き放題はできませんから、騙されて我慢して後から得ようとした人たちはただの奪い合いにしかならないです


 「後からいい目にあえるから」

 という触れ込みで、今我慢させる

 詐欺ですね


 神を信じて尽くしていたらいつか幸せになるとか

 その手の詐欺と同じです



 僕は今、幸せになりたかったので、すぐになりました


 思うに、この動画の中にある常識のひとつ外に出るだけでも相当難しいことなのだと思います

 もっともっと長い目で見れば、そんな風に思わないのですが


 ただ、長い目で見るためには自分を知っている必要があります

 西洋貴族の教育では、「うちのお爺様はこんなに立派だったのだぞ、お前も負けないように努力しろ」だそうです。

 日本の武家の場合は、自分の家の人間を崇拝させません。
 全員人間だ、うちは偉くもなんとない。です。

 明治以降は貴族みたいになっていった家が多数のようです。

 張り合っていった家が多いんでしょうね。
 確かに悔しい事態になりましたからね。

 しかし、その時から大事なものを少しずつ失っていきましたね。


 暗くなるので、明るく書きましょう。

 失っていきましたネ☆

 こんな感じでどうでしょうか。


 今の世の中はこうなっているから、もっと勉強してもっと金を稼いでいかないと、生きて行けない!


 そんな宗教が流行り出したんですね。


 さて、この流れから吸い上げていくのは誰なのかな?


 因果を知る力は、流れそのものを見ていく力です。

 ひとつひとつを点で捉えません。

 よって「これが悪だ」という終了もありません。


 終わりがないという認識が、難しいのでしょうね。

 どこかで結論が出てくれないと、「じゃあ誰が正しいの」となってしまうのでしょう。


 誰も正しくない。

 どこにも神はいない。


 自己実現していくとは、そういうことです。

 悪は消え、善も消え、ただあるがままの全てがあるだけ。


 その世界の中で、色々楽しんだり苦労したりして、生きて行けばそんなに悪いものではないですよ。


 僕は「いますぐに幸せになりたい派」の人のために働くことにします。

 「いますぐに幸せになるために、他人の持ち物をどう得ればいいか教える派」ではありませんので、誤解せぬよう。


 大衆が金にビビらなくてはならない事態になったのは、金さえあればと思って生きている人たちが上に固まっているからです。

 嫌ですねえ。この宗教。


 「~さえあれば幸せになれる」


 不幸な人は、みなそう思っているものです。




 かの青年が、その力を持って富山を盛り立ててくれると、僕は期待しています。








 

 
 





大切なものが大げさに伝えられるわけではない

 雰囲気に押されて生きている人は、本当に大事な話をどこでどう聞くのか知らない。

 大変そうにしていれば「大変な話」にして、軽いノリで話していれば「軽い話」だと捉える。

 それが、雰囲気だけ、ノリだけで生きている人である。


 人間社会では、雰囲気だけで現実を作る人がいる。

 正義風なら正義に、被害者風なら被害者に。


 矛盾したコミュニケーションを行う人は、本当に雰囲気だけの世界に生きている。

 だが、コミュニケーション能力とはただそのまま何も考えずに言葉にしたり、解釈したりするものではない。


 雰囲気は軽いノリでも、笑いながらでも、ものすごく重要なことを伝えている人がいる。


 特に、今のように理不尽な社会になると多く起きる。


 ありのまま、真実を真実として形にできなくなる。


 わかる人はわかっていても、そのまま形に変えれば必ず争いが起きる。



 ひとり、菩薩を知っている。

 昨日その人の話を聞いてきた。


 僕の日本語と会話の師匠である。

 本人は噺家である。

 現在の名を、春風亭小朝と言う。


 僕は噺と、話を聞いた。


 やはり、よくわかった上で、とても重要なことを話していた。


 笑いを誘う冗談を交えながら、本質を突く話をしてくる。

 噺に変えて。


 まだ人間社会が分かっていない人は、「重大な話を重大な話として聞ける」と思っている。

 自己中なのだ。

 自分に都合のいい楽な形で誰かが運んでくれると思っている。

 その誰か、も、この社会で生きる人間。

 そんなことはできない。

 権力がないからではない。

 そんなことは関係ない。


 人間社会に生きる人間であれば、誰しもがそうなる。


 自分が排除されない形に変えなくてはならない。

 そして、心の極楽にいる人は争いを起こさない形に変えようとする。


 親子の話があった。

 師匠は、世間ではバッシングされたその話について「私はそうは思わないんですね。」と切り出して意見を述べた。

 いつもの調子で。

 話の最後には、いつも愛がある。



 動機は、結論に現われる。

 どんなにいい話をしても、どんなに正義の人に思えても、最後にどう結論を出しているか。

 そこにその人の本質は反映される。



 人間を排除にかかるのが、人間の敵。

 人間を理想的に変えようとするのが、スパイ。

 それは人間の排除にしかならないのに、そこに理想的な理由がつくと人間は「その方がいい」と思ってしまうから、自分を正義だと勘違いして排除にかかる。


 自分を排除して生きている人は、それに気づかない。


 最終的には「理想的ではない人間がいなくなればいい」と考えている。

 それが、人間の敵として生きている人である。



 人を笑わせながら聞かせる師匠の噺。そして話。


 そこには重大な本質が含まれている。


 笑える話だから、笑い話。

 そんな風に解釈する人は、自分をバカにされているのに親が笑っていたら一緒になって笑っているのだ。


 そして、叱り飛ばされたら「責められた」と敵意を持つのだ。

 ただ、優しい口調で、優しい言葉を吐けばそれが「優しさだ」と解釈する。


 状況を見て、相手を見て、その表現から何かを知ることがない。


 本当に意思の疎通が図れる人は、伝えようとしていることを受けとる。

 何を言わんとしているのか。

 それは「言葉にできないこと」なのだ。


 雰囲気と説明の内容を「真実」だと思ってしまう人は、「優しい人」に騙される。

 「馬鹿な話をして笑わせる人」をバカにする。

 威張っている人を、「強い人」だと勘違いする。

 大人しい人を、「弱い人」だと軽んじる。


 この社会が、今生きている世界が、なんの問題もなく、常に正直に作られている、と勘違いしている。

 最初からそうではないのに。


 裏が表になって、全て見えることがあると思っている。

 それでは裏が表で、表が裏になるだけだ。


 常に表裏一体。

 何も考えなくとも、想像しなくとも、理解できる日は来ない。


 常に、見えないものは存在している。

 常に、人の心は存在している。

 今までも。


 今まで裏側にあるものを想像してきていなければ、起きていることが理解できるわけがない。

 自分の都合でしか考えなければ、周りの人、社会、何が起きているのかわかるわけがない。


 最近は社会の裏側を「暴く」という真似をして金を稼ぐ権威や名のある人が多い。

 だが、これもおかしい話なのだ。


 自分がそれを知るほどの場まで行って、その世界の裏側を「教えてやるよ」と決して想像がつくわけがない人々から金を取って商売にしているのだ。


 すごいことがわかったならば、自分がなんとかしろ。


 僕が思うおかしさはそこだ。

 本来は、上に立つ者になり、人々から見えない、わからないことがわかるようになったら、わからずに生きている多くの人々に感謝し、その力を皆を守るために使うものだ。

 「お前たちもこれを理解して全部自分でやれ」はおかしいのだ。


 危険な存在は、国と神。

 生まれながらに自分の神がいない。そんな人が殆どになったようだ。

 どうやら、教えてもそう簡単にわからないらしい。

 元々守護神がいるはずの人に話をしても、理解しない。

 恐らく概念自体がない。

 系譜を無駄にしている。人間の敵になってしまっているからだ。

 自分を守るものを捨て、人間に勝つために安心な危険に突き進む。


 守護神は自分で捨てていかない限り、誰もが持っていたはずだ。


 そして、国。という概念。


 ヒトラーは「国が無くなるなら国民なんていても意味がない」という考えの人だったようだが、それが間違いだ。

 国民が先にいて、国は後だったのだ。

 そうあるべきなのではなく、本当にそうだったのだ。


 想像すれば、それしかないとわかる。

 この世界が神話から誕生した架空の世界だと信じている人は、当たり前の起源を理解しない。

 人類がサルのような動物から進化したという話を信じても、そことは関係なく自分の国は神がやってきて作ったと思っている。

 完全に空想の世界である。

 現実の進化を無視している。


 その滅茶苦茶な理論の先には、「崇高なもののために生きて死ね」がある。


 洗脳された奴隷である。



 救いを求める人は、人間に会っても人間に会ったと思わない。

 ありもしない悪者を脳内に作り出すか、ありもしない救い主にして他人を見る。


 そして存在もしない自分になったつもりで生きている。


 ここは夢の国ではない。


 ただの現実だ。


 愛し合う楽しいことばかりの夢のような家庭など、存在しない現実の世界だ。


 全て人間がやっていることだ。


 この現実に架空の家族を作ろうとした人は、常にいいことばかりを起こそうとした。

 人間として当たり前のものを捨てた。


 その当たり前のものを吐き出す場が、敵として作られる的である。


 「いつか誰かが」「いつかはきっと」


 理想の人が現れる。

 理想が現実となる。


 それを夢見て今目の前にいる人々を見下し、大切に少しずつ関係を作ることもしなかった。

 優しい人の気持ちを吸い取り、自分がしたことを恩に着せ、理想が叶うまで誰も人間だと思わずに生きる。


 つまり、死ぬまで自分だけが特別だと思って死ぬ。


 特別な自分は、可哀想な人だったのに誰も気づいてくれず、助けてくれず、可哀想なまま死んで行く。


 そこに救い主などやってこない。

 人間しかいないから。


 本当に不当な目にあっても、誰にも気づかれず死んで行く人はいる。

 ニュースになって知らない人たちが「怖いね」「可哀想に」と後から議論したとしても、その人はもう死んでいる。

 その人の人生は、既に終わっている。


 そのように、毎日毎日、沢山の人が死ぬ。


 最初からこの世界に平和などない。

 問題があれば誰かが解決するわけではない。


 それぞれが自分自身の抱える問題を解決し、課題を乗り越え生きて行くだけだ。


 人間であれば、自分が乗り越えるべき問題がなくなる日は来ない。


 「ああいう人はね、誰でもいいんですよ。文句言える人がいれば。私でなくても同じことをされています。」

 師匠はクレーマーについて語った。

 今のように、社会的に大きな問題が起きると皆が不安になるから、人が意地悪になる、と。

 流石だ、師匠。全てわかっている。


 人をよく見ている。

 人をよく知っている。

 つまり、自分自身を知っている。


 コロナになってから、人々が意地悪になった、と話していた。

 ちょっとしたことでも人に冷たく当たるようになったと。



 では、こんな時はどうすればいい。


 大衆は、批判できる的を求め、不安を攻撃で解消しようとしている。


 そんな時こそ、愛に生きる人は愛を見つけ、愛を生み出さなくてはならない。


 愛は自らの内側から生み出すもの。

 他人に与えられる「甘やかし」は「まやかしの愛」である。


 そして自分を愛さない人は、自分を甘やかし、楽をさせ、怖いものから撤退させ、人生そのものから排除していく。


 本当に冷酷な人もいる。

 わかる人は、その人たちが冷酷であるとわかる。

 裏があるとわかる。


 しかし、それだけで終わるのは正義の仮面を被った人である。


 そことは関係なく、裏側に愛のあるものを見つける。

 自分自身がそうであるならば。



 僕は江戸期までのことは聞いて育ったが、幕末以降の話を聞かなかった。

 それまでのことはしょっちゅう聞いたのに。

 なぜ教えられなかったのか、考えた。

 子孫の身を守るためだったのだ、と悟った。


 わからないうちに言葉で教えれば、どこかで話してしまうかもしれない。

 それは身を危険に晒す可能性があることだから、言葉に変えなくなった。

 ただ、成長した後に気づけばいい。

 そうなれる人間が現れたならば。


 だからこそ、受け継ぐべき本質だけを叩き込んでいく。


 言葉に変えない、形に変えない。

 そんな愛もある。


 現実の我が子を受け入れている人は、現実的に考えて将来子供が苦しむことをしない。

 今泣いたとしても、不満を抱いたとしても、将来的に子供の身を助けるように育てる。


 愛は理想を叶えてくれるものではない。

 愛は人を守るものだ。


 夢みたいなことは何もない。

 そうでないことばかりだ。


 夢を叶えることより、身を守って生きる方が先だ。


 自分で自分を守り、そして人を守ることで自分の身を危険に晒さない。


 そのように育てていくのだ。



 師匠は、独演会を行っている。

 あちこちで行っている。


 あんなに噺のうまい人はいない。

 僕は六歳の頃から、もう四十年聞いている。


 噺家である彼は、噺に変えて人の道を説く。


 素晴らしい体験をさせていただいた。


 しかし、師匠ももう御年を召された。

 話し方が、若い頃とは違っていた。

 ほんの数年前とも違っていた。


 あと、何回この有難い噺を聞きに行けるだろうか?と想像した。


 また聞きに行こう、と思った。



 

西洋崇拝しなくていい、日本人には合わない厳しすぎる内容

 精神分析学の話である。

 心理学、人間性心理について学んでいる人々も多々おられると思うが、どこから学んだだろうか?

 僕は加藤諦三先生からフロイト派精神分析学について学んでいるが、彼の著書や講義の内容には元となる二百年の研究をしてきた学者たちの結論がある。

 その原本を読んだことがあるだろうか?


 例えば、僕が言うことについて厳しいと批判する人もいるが、僕の言っていることは割とわざわざやっている表現が多いとして(主にTwitter)、本当に学術の世界において重視されてきた研究者たちの著書は、そんなものではない。

 たまたま、僕が引用するために写真を撮っていた一文が出てきて、思ったのだ。

 事実のみ、と言えるが、そこに優しさなど全くない。

 だがそれは正解であるとは言えないのだ。

 なぜならば、それを書いている人も人間だからである。


 誰が、言っているのかを考えねばならない。

 多くの人が「正解」を求める相手は社会的に権威ある誰かである。
 誰かは知らないのに、肩書で人を見る。


 平たく言えば「偉い人たちの理屈」とも言えることなのだ。


 自分の正解を他人に求めるのは間違いである。

 まして自分と似たような苦労を経験し、更にそれを乗り越えて既に幸せにもなっていない人に「正しい方法」を聞こうとするのは間違いである。

 この世に正解はない。

 正解があると思っている人は、他人に答えを求める。

 それは間違いである。自分の答えを教えてくれる他人はいない。


 「この世に答えはないから、自分の内から生み出す」のだ。


 超辛辣な学者の文面を引用しようかなとも思った。

 今人間性心理において、フロイト派精神分析学的立場にいる人たちはみなそれを元にしているし、それを元にして考えた人が書いたものから学んでいる。

 しかし

 現時点での日本において、また日本人特有の経緯を考慮して、それを「正しい」と採用することはできない内容だ。

 そして、言葉は人を殺す。
 人の精神を殺す。

 このまま直訳されたものを読んだら、それだけで生きるのが嫌になる人も現れるのではないか、と思えるほど辛辣なので、そのまま読まない方がいいだろう。
 ただでさえ、子供の頃から罪悪感を抱えて生きている日本人たちである。

 どういう方向に向くか予想すれば、あまりにも辛辣過ぎる。

 と僕は思う。

 なにせ、最初の発生がユダヤ人大量虐殺を背景にして生まれてきたものだ。

 率直に言って、その背景を元に生き、そして考えた人がブッダのような結論に到達することは難しいだろう。

 これをそのまま悩んでいる人に語って聞かせても、より生きていてはいけない気にしかならない、そんな内容が沢山ある。


 みな心理学、と一括りにするが、日本でも領域が10個に分かれている。

 更に、〇〇派、のような形で主になにを主体としている学派か、更にその中でどう進みたい派閥か、と細分化されている。

 政治家のようになっているのだ。


 そして、これ自体を「意味ない」と考える。

 それが仏教でいうところの解脱をしていく人たちだ。


 人間性心理について研究する人にも二種類いて、前向きに人間を観察して幸せになることを考えている人と、人間の欠点について徹底的に掘り下げていく幸せになりそうにもない人がいる。

 人間なのだから、当然どんな分野にいても本人自身の人間性がある。

 その中に、ああでもない、こうでもないと争ってばかりの人々が嫌になって、そこから離脱して我が道を行く人もいる。

 しかし、我が道を行った人がその時は認められなくても、後に偉大な哲学者となる場合もよくある。

 じゃあどうすればいいの?

 という声が聞こえてきそうだが


 「好きにしろ」


 それしかない。

 日本人全体に共通して発生している問題は「自分の好きにできない」ことであって、「欠点を直せない」ことではない。

 欠点を直そう直そうとしているうちに、自分の好きなことがわからなくなり、自分の道を進んでいなかったことなのだ。


 なんとなく、社会的に立派なことをやっている人を見ると人間はその人が正しいことをしているのだと思い込む。

 しかし、「なんのためにやっているのか」が重要なのだ。


 そして僕は「そんなものどうでもいい」という、新しい勢力の人である。


 金のことばかり考えて、友達もいない、夫婦もうまくいかない、酒も煙草も遊びも、社会的に理想ではないことは徹底的にやめて「立派な人」になりたがる。


 「こんなにちゃんとしているんだぞ」と見せたい人が、真に大人として成熟した人だと言えるだろうか?


 望んだとおりの環境に生まれて来なかったのに、社会の理想通りに生きようとする方がおかしいのだ。


 改めて言うが、二百年前の日本はこんな中身ではなかった。

 かつてなら「そんなことどうでもいいよ」と思われることを、今や必死になって得ようとしている有様。

 ところが、現代だからかと思いきや、それさえ外国に行けば「気にしている人などいない」という散々たる状況である。

 国の命運が中央銀行の手によって握られ、金が全てとなっている。


 そんな社会で認められるために自分を見せびらかしていたら、「金さえあれば」と思って人を蔑ろにする人生になるだろう。

 「お金や権威は関係ない」

 と言いながら、自分はそれを持ってそれにしがみついて、優越感に浸りながら困った時だけ「優しいだろう」と思って見下している人に寄っていく「立派な人」のなんと多いことか。

 それだけ立派になりながら、自分の独自の考えも哲学も持たないのだ。


 そのような人たちと比較して劣等感を抱えるものではない。

 そして自分の力で生きていくことを、「全部一人でやっていく」だと勘違いしてはならない。

 そんなことは、社会に生まれた時から不可能なのだから。


 親に対して金銭の恩を返さなくてはならないと子供が罪悪感を抱えて生きるのだから、本当に世も末と言える。


 そんなことはする必要がない。

 親は親なのだから、親も子供を自由になどできないとどこかで思い知らねばならないのだから。


 僕は時々「好きなことをして生きている人」を見つける。

 見つけるが、それを大々的には言わない。

 「そんな人もいるんだ」とわかればいいのだ。


 最近も見つけたのだが、とある分野の作品を作る人だった。

 僕は作品を見て泣いた。

 なんだこれは、誰が作ったんだ!と気になって調べてみたら、「成熟した大人だ」とわかる人だった。

 心穏やかに現実を受け入れて生きている。
 農家ばかりの田舎町に暮らすある奥さんだった。

 それが世の中でどのくらい知られているかなど、関係ない。

 好きで、楽しくて作っているのがよくわかる。

 人に対する愛情がこれでもかと表現されたその作品は、人の胸を打つものがあった。


 本当に感動した時、人は言葉を失う。

 そのくらいすごいものを作る人がいる。

 しかし、その人は偉くもなんともない、好きなことを通信大学で学んだ田舎町の主婦だった。

 今では既に作品を飾る施設を持っている。


 ダライ・ラマ14世が言う。

 「現代社会の人々は、アカデミックなことに対して過剰に信頼しすぎている。」

 ハーバード大学心理学者、エレン・ランガーは言う。

 「科学や学術を完璧だと思わないでほしい。私たちにもわからないことは沢山ある。」


 その時その時、その立場になった人たちが試行錯誤しているだけ。

 多分こうだと思う。きっとこうに違いない。

 そのようなことを「社会的に権威ある人」が述べただけで人間は絶対の教えかのように思い込む。


 しかし、本当の答えは常に出ているはずだ。


 自分自身にとっての真の答えは、自分の中に最初からあるのだから。














 


 

皆はいいよな でも自分は…


 皆はいいよな、でも自分は…

 そんなことを考えてしまいますね。

 自分は他人とは違いますから。

 僕も思います。

 これから金沢に長期滞在します。
 講座も行います。




 お近くの方は是非お越しください。


 僕もやりたいこと、特に仕事では色々計画がありましたが、何もできなくなりました。

 最低限の活動しかしていません。

 そんな時、「皆はいいよな」と思うことはあります。
 でもすぐに考え直します。
 自分の人生は他人のものではありません。

 他人と比較して今何ができるできない、と形あるものばかり見ていられる人は、特に何も背負っていないのです。

 自分次第でいくらでも好きなことをできるならば苦労はしません。

 しかし、大人になればその人の運命により、どうあっても「常に自由になんでもできる」というわけではありません。


 僕は祖母の元に通っています。

 僕の今の人生はそれが一番大事です。

 僕の祖母は下に兄弟が8人もいました。一番上なので弟妹の面倒を見て、末弟は息子のようなものです。
 更に、養父母の面倒、夫の面倒、そして子供に孫と、人生をかけて人の面倒ばかり見てきました。

 僕も幼児期には祖母に面倒を見てもらいました。

 その祖母の元に、今は誰もやってきません。

 一人娘の母は若いころから完全に祖母を放置し、何を勘違いしているのか

 「私は元気でやっているから大丈夫!」

 とわけのわからないアピールをし、認知症で要介護5という状態の祖母に真っ白なハガキの束を「これに手紙書いて送ってね!」とメッセージを添えて渡していました。


 自分が面倒を見る気はさらさらなく、母親が施設に入ってもまだ自分を見てもらって自分が安心させてもらって、褒められようとしている。

 この最悪な母は、本当にそれが正しいと信じ込んで死んで行きました。

 祖母より早く死んでくれて、本当に助かりました。

 そして僕の上にいる姉も同じ勘違いをしているので、僕の邪魔をしては自分がどんなに立派にやっているか、を見せつけるために、新興宗教どっぷりの夫家族と一緒に人の家の金を奪うことばかり考えています。

 遠くにいて「祖母のお陰だ、有難い」と言っているだけならば誰でもできます。

 もらうだけもらって、そのまま見送るなど言語道断です。

 自由を奪って自分が面倒を見てもらったのだから、僕自身も自分の自由を制限されても祖母の元に通うのが当然です。

 とんでもなく遅いくらいです。

 本来はそんなことは人生の計画に入れていなくてはならないのに、僕も母の近くにいたものだからこんなどうしようもない人生を送ってしまったと反省しています。


 人生の大きな流れを間違っていたら、何をどう頑張ろうが、目先のことがうまく行こうが、虚しいばかりです。


 自分の人生をしっかりと生きていると感じるためには、自分の運命を失ってはなりません。

 仕事や東京での日々だけが人生だと考えれば、今の状況は苦にしかなりません。

 しかし、苦労を体験することで、「自分が子供の頃は婆様が自由を捨てて、僕の面倒を見てくれていたんだ」と感謝の気持ちが湧いてきます。

 毎日毎日、同じようにただ世話をする日々を送り、真面目に毎日毎日働いてきた祖母が、なぜ誰にも感謝されることなく、

 「あの人は大丈夫」

 と完全無欠みたいな扱われ方をしなくてはならないのか。

 施設の方に「これだけは手放したがらない、少し横に片付けようとしてもものすごく怒る」と聞いたものがありました。

 祖母の母、つまり僕の曾祖母が作ってくれた「ちょっき」でした。

 昔はそう呼びました。毛糸の「ちょっき」です。

 夜中に一人で喋っている時、どうやら母親と話しているようだと、一番長く面倒を見てくれている方に教えてもらいました。


 それを聞いて、僕たちは婆様に本当に申し訳ないことばかりして生きているのだ、と痛感しました。


 常に安定していられる人は、なんて楽な人生だろうと正直思います。

 生きているだけで次々と、自分が前に進むこと以外にも背後から問題はやってきます。

 それをなんとかしながら生きていかねばならないのに、家族が面倒ごとを全部引き受けているのだろうと思います。


 僕はそうはいきませんが、他人と比較もしません。

 これが自分の背負う運命であり、もし今しばらく自分の選びたい道が滞ることがあっても、必要なことを蔑ろにしない日々を送っていれば、必ずその方が良い結果になると確信しています。

 故郷に通い、もうすぐ2年近くになります。

 こんなものでは恩返しできないほど、祖母には大きな恩があります。

 自分のことばかり考えて他人と競争していられるならば、そんなに楽なことはありません。

 しかし、もし僕がそれをやれば、将来に不安材料を生み出すことになるでしょう。


 そして、僕はこうして祖母の元に通い続けながら「母親とはなんなのだろう」と考えるので、社会で自分だけ立派になっては、細かい面倒を見てくれている妻や母を蔑ろにしている人たちについても考えるのです。


 そこにいつもいてくれた、というだけで、有難いことだったのだと気づいたときには、大抵の人がもう手遅れなのではないでしょうか。

 特に妻は、元々他人です。

 母親ではないのですから、後から有難いと言い出したところで、もう相手は自分を精神的に見限っているのではないでしょうか。


 今回、僕は金沢にまず1週間滞在します。

 まず1週間です。

 東京から来た人は、まず1週間滞在して健康確認できないと、ガラス越しでも面会させられない、と施設の方からお達しがありました。

 そこまで長くは滞在していられない、と思っていましたが、本当にもう生きているうちに何度も会えないだろうに、ここで犠牲を惜しんではダメだと考えました。

 生きているうちだけしか、会えないです。

 会えなくなったら、死んでしまったらもう全ては終わりです。

 「じゃあこれからは」は相手がいるから言えることです。


 祖母が死んでから「しょうがない、こっちは忙しいのだから、離れているのだから」は言い訳になりません。

 最初から離れているのはわかっていますから。

 そしていつか年老いていくのもわかっていますから。

 「忙しいから行けない」は、

 「何も考えてなかったから今更どうにもできない。自分が得たものは失いたくないから。」という意味でしかありません。


 祖母が自由を捨て、せっせと皆を育て世に送りだしてくれたのに、外で何かを得てはどんどん欲を出し、誰も戻ることもない。

 こんな非道な真似をした一族が、まともな末路など迎えられるわけがありません。

 僕は何も得ていません。人に自慢できるものは何もありません。

 でも、大事なものは失わずに済みました。

 本当によかったです。


 先日は、「絵手紙」というものをうちの会員の方からいただきました。

 娘が「買ってきた既製品のハガキだ」と勘違いしたほど、味のある絵手紙をいただきました。
 にこにこ顔のひゃくまんさんが可愛いので、飾っています。

 他にもお便りや、金ちゃんヌードルをなんとケースでいただきました。


 そんな風に、どこからか誰かが親切にしてくださることがあり、とてもありがたく思います。

 逆に娘は職場で上司に絡まれていびられるし、若い人叩きをする人たちがどこに行ってもいて嫌な世の中だとも思います。

 どこに行っても、いろんな人がいます。

 しかし「自分の人生」を生きていくことが僕にとって最も大事なことなので、今はこれでいいのだと納得しています。

 祖母をほったらかしにしていたら、ただでさえ殆ど親と関りのなかった僕は、母親とは何かなど、考えもしなかったでしょう。

 ただ憎いだけの「本当の母親」を相手に、個人的な感情を持って考えることしかしなかったかもしれません。


 自分が面倒を見てもらったのは子供の頃だったとしても、今も祖父母、そして両親は存在しています。

 全面的に完全に感謝できる「完璧な母」など存在しませんが、生きているからには部分部分を誰かに頼って生きてきたはずです。


 誰と交流しても、そこから得るもの、学ぶべきものはあります。

 それができないのは自分の責任でしかありません。


 「必要なものを望んだ形で他人が与えてくれる」と期待するからです。


 自分の人生は自分だけのもの。自分で考えて選んで進んでいかねばなりません。


 社会が不穏な空気になっている今こそ、僕は自分がどこの誰か忘れずに、まず大切なものからきちんとしていきたいのです。

 社会で偉くなったり優秀になったり、張り合って勝ち負けを決めることも、

 誰を正しいか決める決定戦をすることも


 それは「自由な人たち」に任せておこうと思います。


 親も祖父母もいつか死にます。

 見送る時に心から感謝して、後悔せず、また後ろ暗いことなく見送っていけるように、僕は今の日々を使いたいと思います。


 周りを見ると、自分もあれをやらなきゃ、これをやらなきゃ、と自分だけが置いていかれるような不安に襲われます。

 自分だけが何もできない不自由な身の上であるかのように感じ、自分だけ不遇な気がしてきます。

 しかし、不遇ではありません。

 当たり前のことを当たり前にやって生きていく僕の方が、祖母を放置して生きていく僕より自分自身が納得いく自分になっていると思います。

 祖母がいたから僕があるのですから、これは不遇なことではありません。

 他人を見て他人の持ち物を羨み、自分も手に入れて当然と傲慢な気持ちを持てば、当たり前のことも不幸に思えてくるのです。


 親になるとやることが沢山あります。

 食事や風呂などの世話だけではなく、社会的な手続きなどは当然親がやっています。

 僕もかつてこれをやってもらえたのだなと感謝しています。

 母はいつまでも「お母さん忙しいから、あんたやっといて」と逃げていました。

 「他人の真似で忙しい」

 そんな人生を終えた母は、本物の不遇な人でした。

 僕は黙って人の面倒を見てきた祖母が、感謝され旅立っていけるようにしてあげたいし、最も感謝するのが自分でありたいと思っています。

 そのためにも、せっせと故郷に通う日々は無くてはならないのです。


 僕は人の生も死も、無駄にしないよう生きていきていきたいと思います。



 金沢の講座では、周りに巻き込まれてなんとなく生きないための、人生の作り方、視点の見つけ方を教えたいと思います。


 僕の人生は家の運命と共にありますので、今後同じことを続けていけるかどうかもわかりませんが、その時その時できる限りのことをして行きます。

 世間から見れば人知れず生まれてきたのだから、

 幸せを感じる時も人知れず感じていれば最も幸福になれると思います。
















 

 
 







Twitter プロフィール
心理療法研究家、カウンセラー。精神分析、非言語療法、歴史、武家教育、仏教etc...古代氏族当主。歴史の流れと合わせて日本人の心理的変化を観察している。IQ150。レジリエンスパーソナリティ。精神分析学を加藤諦三より学ぶ。テレフォン人生相談ゲスト回答者。相談や講座を行っている。
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